見たことのない景色だった。

磨かれた灰色の床が、高い天井の照明をむなしく映す。旅の高揚感に足を早める人が行き交う姿も、搭乗手続きにいら立ちながら並ぶ人たちの列もない。そのにぎやかな残像たちを重ねれば、目の前に広がる静けさは異様の一言だろう。電光掲示板が映す世界の都市の名の横には「欠航」の文字が並んでいる。

REPORTAGE

需要蒸発、
見たことのない景色

経営は楽観と悲観に揺れた

(写真=AP/アフロ)

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見たことのない景色だった。

磨かれた灰色の床が、高い天井の照明をむなしく映す。旅の高揚感に足を早める人が行き交う姿も、搭乗手続きにいら立ちながら並ぶ人たちの列もない。そのにぎやかな残像たちを重ねれば、目の前に広がる静けさは異様の一言だろう。電光掲示板が映す世界の都市の名の横には「欠航」の文字が並んでいる。

新型コロナウイルスの感染拡大を受けた緊急事態宣言下の2020年4月、成田空港の出発ロビーに立ったANAホールディングス(HD)代表取締役専務執行役員・芝田浩二は、もはや現実のものとなった危機の姿を前に、記憶を手繰り寄せた。

1990~91年の湾岸戦争。2001年の米同時多発テロ。08年のリーマン・ショックも経験した。需要蒸発に航空業界がきしむ姿は、これまで何度も目にしてきている。

だが、ここまで人のいない成田空港の姿を見たことは一度としてない。今まさに異次元の危機に襲われていることを実感し、芝田は戦慄せずにはいられなかった。

異変は静かに訪れた

日常の隙間から危機がその姿を見せ始めたのは20年1月初旬のことだ。「中国で新型肺炎が流行しているようだ」。全日本空輸(ANA)グループは感染が拡大していた武漢に直行便を運航しており、総領事館も置かれていない現地拠点から生々しい情報が次々と寄せられた。1月28日には政府の要請で帰国用のチャーター便を武漢に飛ばしている。

ANAホールディングス 社長

片野坂 真哉Shinya Katanozaka

(写真=竹井 俊晴)

スイスに滞在し、世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)に参加していたANAHD社長の片野坂真哉は、その報告に触れて小さな不安のさざ波が立つのを感じていた。ただ、当時、多くの関係者の頭によぎったのは重症急性呼吸器症候群(SARS)の記憶。迫るリスクの大きさを予測できている者はまだない。

危機のギアが変わったのは2月26日のことだった。「全国的なスポーツ、文化イベント等については、大規模な感染リスクがある」。首相(当時)の安倍晋三は国民に大規模イベントの自粛を要請。これを機に、国際線にとどまっていたコロナ禍の影響が国内線に波及し始める。

社内は騒然となった。3月19日、片野坂はグループの全社員に向け「新型コロナウイルスの猛威から生き残るために」と題したメッセージを発信し、危機の到来を告げる。

その文面には「政府がコロナ禍の収束を宣言する時期を5月末と想定する」とある。結果的には、この見立ては楽観に過ぎた。だが、片野坂は「当時から危機感は相当抱いていた」と振り返る。

3月末には「一時帰休」の実施で労使合意。人件費を抑えるための苦肉の策だった。同時に資金調達に奔走しつつ、4月に予定していた超大型機、欧州エアバス製の「A380」の3機目の受領を延期することも決めた。維持コストなどの低減を図る狙いだった。

底がうかがい知れない危機を前に立ちすくむ従業員たちには可能性としての展望を示しつつ、その裏で、大幅なコスト削減や資金調達に動いていたのだ。楽観と悲観を同居させる、経営という営為の難しさだろう。

「輸血」と「止血」

リスクの逆襲。ANAHDが置かれていた状況を一言で表すとそれだ。

2010年、日本航空(JAL)が経営破綻すると、ANAHDは一気にナショナルフラッグキャリアの座をつかもうと動いた。JALは破綻後、国土交通省によるいわゆる「8.10ペーパー」で投資や路線の開設を抑制された。これを好機としてANAは米ボーイングの中型機「787」を中心に機材数を増やし、主に国際線の路線網拡大に走る。13年には7年後の東京五輪・パラリンピックの開催が決まり、日本はアベノミクス景気に沸き始めた。

インバウンド客の増加も背景に事業規模は急拡大。19年3月期には売上高が初めて2兆円を超えた。7年前の1.5倍弱だ。次に見据えるのは20年3月に控える、ビジネス需要が大きく収益力の高い羽田空港の国際線発着枠の拡大。五輪効果も最高潮となるこの年に、さらなる飛躍を図ろうとする矢先のコロナ禍だった。

出血する時間の長さとペースが余命を決める。ANAHDは4月末にはコロナ禍の収束時期を「8月末」との想定に切り替え、さらに7月末にはコロナ禍前の水準まで旅客需要が回復する時期を国内線は「22年3月末」、国際線は「24年3月末」に据え直す。楽観は悲観に追われていった。

先が読めない中、ANAHD経営陣が取り得た手段は、資金調達という「輸血」と、コスト削減という「止血」しかなかった。生命をつなぐための奔走。それは、損益計算書ではなく、バランスシートの上での戦いだった。

6月末までにANAHDは融資枠を含め計1兆円の資金を確保し、一時帰休の範囲もグループのほぼ全体に広げた。

社長直轄の会議を招集

両翼のもう一方もまた、未曽有の危機に苦しんだ。

「収入が下振れする可能性は否定できない」

20年1月31日、同年3月期の連結純利益を従来予想から210億円引き下げ、930億円となる見込みと発表したJALの取締役専務執行役員(当時)、菊山英樹は報道陣にこう説明した。ただ、菊山自身、コロナ禍の影響がどこまで顕在化するかは見通せていなかった。

2020年2月、クルーズ船内で新型コロナの大規模感染が発生。混乱が始まった(写真=つのだよしお/アフロ)

20年3月期が締まり、決算をまとめ始めた4月初旬、「これはただごとではない」と社内の危機感が一気に高まる。この頃には、コロナ禍への対策を話し合う経営トップ層の会議を、月に数回の定例の経営会議とは別に毎週実施し始めた。

同会議は東京・天王洲アイルにあるJAL本社で開かれ、オンラインでも各所と結ばれる。議長はJAL社長の赤坂祐二。参加者は役員陣のほか、人事や生産管理、整備、営業などの責任者たちだ。新型コロナウイルス感染の拡大状況、減便の計画、機材繰りの調整など、状況がめまぐるしく変化する中でそれぞれの取り組みを早い段階で一元的に情報集約し、共有するのが狙いだった。

同じ危機対応でも、当初交わされた議論は災害対応のそれに近かった。運休・減便に迫られる中で、医療従事者の移動やマスクなどの衛生関連物資の輸送のためネットワークをどう維持するか知恵を絞った。だが、感染拡大が進む中で、焦点は自身の足元に迫る危機に変わり、議論のボルテージは上がっていく。

会議に同席している菊山は、赤坂の陣頭指揮のもと幹部らが侃々諤々(かんかんがくがく)する姿を見ながら、およそ10年前の社内を思い起こしていた。

日本航空 社長

赤坂 祐二Yuji Akasaka

(写真=的野 弘路)

経営破綻の翌年、11年3月11日。東日本大震災は文字通りJAL社内も揺さぶった。当時、菊山はJALの経営企画本部の副本部長を務めていた。

仙台空港が津波に襲われ、羽田・成田空港の滑走路も一時閉鎖された。陸路も一部寸断され、公共交通機関として東北への足を確保しなければならない。当時、唯一機能していた山形空港への臨時便を運航するなどの対応に追われた。

さらに菊山には、もう一つ同時に進めなければならない仕事があった。再建を陣頭指揮する稲盛和夫肝煎りの経営管理手法「アメーバ経営」の根幹をなす「部門別採算」の導入だ。同年1月から段階的に取り入れていた。JALでは、各種経費を配賦して路線ごとに損益を算出する仕組みとした。平時の採算を度外視してでも進める短期的な危機対応と、破綻を招いた放漫なコスト意識を改善するための取り組み。この両者を同時に進めざるを得なかったのだ。

見よう見まねで苦しみながら進んだ部門別損益の導入作業だったが、効果は絶大だった。「見える化」されたコストがそぎ落とされ、12年3月期の営業利益は2000億円超。破綻2年後の急回復を支えた。

稲盛の右腕として京セラから共にJALに会長補佐の肩書きでやってきた大田嘉仁(現・MTG会長)は、部門別採算導入に奔走する菊山の姿を傍らで見ていた。「あのときの経験は彼の中で大きなものになったはずだ」

以降、菊山は路線統括本部長、財務・経理本部長を歴任し、経営の中枢を担い続ける。その信条は、財政規律を保ち、着実に利益を生み出すこと。破綻という過ちを繰り返さないために、過度のリスクと肥大化を戒める「番人」となった。

20年4月、大幅な運休で飛べぬ航空機が空港にずらりと並ぶ(写真=Aviation Wire/アフロ))

JALの戦略はその方針を地でいくものになる。国際線の路線網は自前主義にこだわらず、海外勢とのコードシェア(共同運航)や共同事業を通じて広げていく。この間に事業規模ではリスクを取って拡大にかじを切ったANAHDが先を行ったものの、利益率ではコスト意識が浸透したJALが大きく上回った。着実に内部留保をため、自己資本比率を20年3月末時点で51.2%(国際会計基準)まで高めた。財務上の危機への耐性はANAHDよりも強固だったと言っていいだろう。

コロナ禍以降、JALの20年6月までの資金調達額は融資枠含め約5000億円にとどまる。ANAHDがやったような社員の一時帰休は実施せず、業務が減って浮いた時間は研修などに割いた。20年夏の賞与も、基本給1カ月分に加え、最大15万円の特別手当を支給している。

8年前の意趣返しか

耐性の違いこそあれ、需要蒸発という危機に向き合うことになったANAHDとJAL。この両者の思惑がきわどく交錯する瞬間があった。

20年11月、JALは突如、約1800億円を調達する公募増資の実施を発表。当時、JALに比べ財務基盤がもろいANAHDの公募増資が噂されており「ANAHDではなくJALか」と驚きをもって受け止められた。

ある証券アナリストは「8年前になめた苦汁をやり返した」と見ている。破綻に伴う上場廃止からJALが東証1部に再上場を果たす2カ月前の12年7月、ANAHDは公募増資などの実施を発表した。JALに先んじて市場の航空銘柄への投資マネーを吸い上げようとした、と見る市場関係者が少なくない。今回は逆の構図になったわけだ。

菊山も当然、ANAHDがいずれ増資を実施すると想像はしていた。本人いわく「とはいえ、そのことは(増資の)判断軸ではなかった」。

JALの破綻後約10年間、菊山が「番人」として守り続けた財政規律路線は、ANAHDへの政策的優遇措置と表裏をなすものだった。菊山の真意を確認する術はないが、翼をそがれていた期間が長かった分、アフターコロナに競争優位を形成したいとの思いはあったはずだ。相対的に財務の健全性がより高いにもかかわらず「攻め」の公募増資に出たJALに、市場関係者からは「ついに反転攻勢に出るのか」との声も聞かれた。

両社のニアミスは続く。21年4月30日、ANAHDは21年3月期決算会見の場で、22年3月期平均の国内線の需要水準が、コロナ禍前の8割に回復するとの見込みを示した。その上で通期業績が35億円の最終黒字に転換するとした。

「明らかに銀行向けのアピールだろう」と、証券アナリストは分析する。ANAHD社長の片野坂は、20年10月以降、あらゆる場面で「2期連続の赤字は避けなければならない」と繰り返した。2期連続の赤字は資金調達を難しくさせる。一般の融資では、抵触すると返済期限前でも融資元が返済を要求できる財務制限条項(コベナンツ)が定められており、2期連続の赤字が条項の一つに盛り込まれている場合が少なくない。だからこそ、21年3月期には機材などで大幅な減損を計上し、「うみ」を出し切ろうとした。その末の黒字予想だった。

20年7~12月に実施された「 Go To トラベル」は一定の需要喚起に(写真=つのだよしお/アフロ)

両社の決算発表には1週間のずれがあった。ANAHDの黒字化宣言を受け、市場はJALがどんな業績予想を出すのか注視していた。

果たして、熟考の末に菊山が下した判断は「確信を持って語れない前提の業績予想は開示すべきではない」というもの。JALは5月7日、「業績見通しは未定」と発表した。

結果的に、21年度上半期はデルタ株が猛威を振るい、断続的に緊急事態宣言が発令。ANAHDはコスト削減や貨物事業の増収などで4~6月期の営業赤字幅を計画より150億円縮小させたものの、4~9月期は1160億円の赤字となり、通期業績予想の下方修正を余儀なくされた。「未定」だったJALの22年3月期も赤字となるとの見方が大勢を占める。

強気に未来を語るのか、堅実に口を閉ざすのか。これもまた銀行や投資家を観客とした、営業上とは別の経営の戦いの姿だった。

21年夏、デルタ株のまん延で繁忙期の客を取り逃した(写真=Pasya/アフロ)

=文中敬称略

日経ビジネス2021年11月8日号 13~17ページより

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