仕事やプライベートの時間をやりくりするために、真っ先に削ってしまうのが「睡眠」ではないだろうか。また、年齢とともに、眠りが浅くなったり、目覚めが悪くなったりする人も多いに違いない。もう眠りで悩まないための、ぐっすり睡眠術をお届けしよう。
オレキシンという言葉をご存じだろうか? 今から20年前の1998年に発見された脳内物質で、人間の「覚醒状態を維持する」働きを持っているという。
1998年に発見された脳内物質「オレキシン」は、人間の覚醒状態を維持する働きを持っている。この働きを知って、眠りの改善にどうつなげればいいのか。(c)Erwin Purnomo Sidi-123RF
これは日常生活を送る上で欠かせない脳内物質だ。あり得ないような場面で突然眠り込んでしまう疾患であるナルコレプシーも、オレキシンが作られないために起こることが分かっている。また、最近は脳内のオレキシンに作用する安全性の高い睡眠薬も登場している。
このオレキシンを発見したのは、筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構で副機構長を務める同大医学医療系教授の櫻井武さんと同機構長である柳沢正史さんらのグループ。オレキシンの働きを知って、眠りの改善にどうつなげればいいのかを櫻井さんに聞いてみた。
お互いを抑え合う覚醒システムと睡眠システム
「1910年代から20年代にかけて、最初に脳内における睡眠と覚醒の制御システムに着目したのはウィーン大学の神経精神科教授だったコンスタンチン・フォン・エコノモという人物。当時、脳炎を伴う感染症がはやったことがきっかけでした」と櫻井さんは話し始めた。
この感染症にかかると、ある人は過眠症になり、ある人は逆に重度の不眠症になった。調べてみると、どちらも脳の視床下部という場所に病変が見つかった。視床下部の後ろのほうに病変があると過眠症になり、前の方(視索前野と呼ばれる部分)にあると不眠症になる。つまり、視床下部の後ろ側に覚醒に関わる領域が、前側に睡眠に関わる領域があることが分かったという。視床下部の前側にある神経細胞はGABAという抑制系の神経伝達物質を作っており、睡眠中に活発に活動している。要は覚醒を抑えているのだ。
脳の視床下部の後ろ側で覚醒物質が作られる
図は左側が前方(目のある方向)。脳の視床下部の後ろ側に覚醒に関わる領域が、前側に睡眠に関わる領域がある。覚醒に関わる領域では、オレキシンやヒスタミン、セロトニン、ノルアドレナリン、アセチルコリンといった覚醒物質が作られる。(図は櫻井さんの話を基に編集部で作成)
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「その後、米国ノースウエスタン大学の研究で、脳の底に位置する脳幹が覚醒をつかさどっていることも分かりました。脳幹で血流障害を起こすと意識がなくなることからも脳幹が覚醒に重要なことが分かります。また、覚醒作用のあるモノアミン(ノルアドレナリンやセロトニン)やアセチルコリンが脳幹で作られ、脳全体に運ばれています」(櫻井さん)
覚醒を促すモノアミンやアセチルコリンを作る神経細胞は、起きている間は活発に働き、眠っているときは活動が鈍くなる。
このように、視床下部の後ろ側や脳幹にある覚醒システムと、視床下部の前側にある睡眠システムはシーソーのようにお互いを抑え合い、バランスがどちらかに傾くことで覚醒と睡眠が作られるわけだ。
オレキシンによって覚醒状態が保たれる
櫻井さんらが発見したオレキシンは、視床下部の後ろ側にある「外側野」(がいそくや)という部分で見つかった。かつてエコノモが「覚醒に関わる領域」として注目した場所だ。
「ここは食欲をつかさどる摂食中枢でもあります。電気刺激を与えるとすごく食べるようになり、壊すとものを食べられなくなる。摂食行動というのは動物にとって非常に重要な行動。ものを食べるには、当然ながら覚醒状態を維持する必要もありますしね」(櫻井さん)
最初に触れたように、オレキシンの働きは覚醒状態を維持すること。具体的には、「モノアミンの分泌が止まらないように作用している」と櫻井さん。このオレキシンを作る神経細胞が壊れた状態が「ナルコレプシー」(居眠り病)という脳疾患で、いつ眠りに落ちるか分からなくなってしまう。例えば自動車の運転中に突然眠り込んだら命にかかわるだろう。私たちが安心して日常生活を送れるのはオレキシンのおかげなのだ。
一方、「就寝時にもオレキシンが活発に作られていると不眠症になってしまいます」と櫻井さんは指摘する。
オレキシンに作用する睡眠薬も登場
そこで、オレキシンの働きを弱めるタイプで、体に比較的優しい睡眠薬も登場している。2014年に登場した「スボレキサント」(商品名ベルソムラ)というオレキシン受容体拮抗薬で、オレキシン受容体をブロックしてオレキシンと結合できなくすることで睡眠を導くものだ。
現在の主流となっているベンゾジアゼピン系の睡眠薬は、覚醒を抑えるGABAの作用を強める薬。効果は強いが、筋肉を緩める作用もあり、また脳全体の機能を低下させるため、トイレに起きたときの転倒や記憶障害などが起こりやすい。また、依存性もあるので急にやめると眠れなくなる。さらに、「長期間にわたって飲み続けるとアルツハイマー病やうつ病のリスクが高くなるという疫学研究もあることから、近年にわかにベンゾ系睡眠薬の過剰な使用に警鐘が鳴らされるようになった」と櫻井さん。
日本の「睡眠薬の適正な使用と休薬のための診療ガイドライン」でも、ベンゾジアゼピン系睡眠薬は転倒・骨折のリスクを高めるということで、高齢者には非ベンゾジアゼピン系を推奨している。
それに対してスボレキサントはオレキシンの働きを抑えるだけなので、筋肉や記憶への悪影響はない。櫻井さんによると、「依存性も大きな副作用もなく、自然な睡眠をもたらすということで、シェアを伸ばしている」という。
夜間のオレキシン分泌を防ぐには?
しかし、いずれにしても薬物に頼るのは好ましくない。日常生活で「夜間のオレキシン分泌」を防ぎ、スムーズに眠るコツはないだろうか。櫻井さんに教えてもらった方法を紹介しよう。
1. ストレスをためない
ストレスがあると眠れなくなるのは決して気のせいではない。「ストレスを感じると視床下部からCRH(副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン)というホルモンが作られることで、オレキシンも活発に作られるようになります」と櫻井さんは説明する。
ストレス解消に有効なのは気分転換。家に帰ったら好きな本を読んだり音楽を聴いたりして、仕事のことを忘れよう。スポーツで汗を流す、親しい友人と会う、カラオケに行く、といった方法もいいだろう。酒やタバコなど体に負担をかける方法は避けて、上手にストレスを解消してほしい。
2. 寝る前に感情を刺激しない
「喜びや恐怖など、強い感情もオレキシンの分泌を促進します」と櫻井さん。就寝前に好きなことをやるのはストレス解消になるとはいえ、あまり刺激の強い映画や興奮を招くゲームはお勧めできない。メールも意外と感情を刺激することが多いので、急ぐ必要がなければ翌日にしておこう。
3. 朝起きたら太陽の光を浴びる
通常、オレキシンは昼間にたくさん作られ、夜になると作られなくなっていく。夜間のオレキシン分泌を抑え、快眠を導くためには、体内時計を整えることも大切だ。櫻井さんは「ストレスや感情に比べれば、体内時計ははるかにコントロールしやすい」と話す。
最も有効な方法は、毎朝同じ時刻に起き、起きたら太陽の光を浴びること。「光を浴びてから16時間後に眠れる体勢が整う」と櫻井さん。なお、夕方以降に強い光を浴びると体内時計が後ろにずれていく。特にLEDの光はブルーライトが多く含まれ、体内時計への影響が強い。夜になったら部屋の照明は暗めにして、パソコンやスマホもなるべく目にしないほうがいいだろう。
4. 規則正しい生活サイクルをキープ
体内時計を整えるには、何といっても生活サイクルを規則正しくすることだ。就寝時刻は日によって多少ずれてもいいが、起床時刻は常に一定にしよう。
前回も触れたように、休日の朝寝坊はせっかく整った体内時計を台無しにしてしまうので、休日もできるだけ起床時刻を変えないこと。眠かったら昼寝で補うことにして、せいぜい1時間以内の寝坊に留めよう。また、「毎日同じ時刻に食事を取ることも体内時計を整える上では重要です」と櫻井さんは話す。
(図版:ランタ・デザイン)
櫻井武(さくらい たけし)さん
筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構 副機構長

1964年生まれ。筑波大学大学院医学研究科博士課程修了。同大学院人間総合科学研究科准教授、金沢大学医薬保健学総合研究科教授などを経て、2016年より筑波大学医学医療系教授。日本睡眠学会評議員。著書に『睡眠の科学・改訂新版』(講談社)、『<眠り>を巡るミステリー』(NHK出版)、『最新の睡眠科学が証明する 必ず眠れるとっておきの秘訣!』(山と渓谷社)など。
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