山本:先生が与え過ぎちゃうというか。例えば僕はあるテストの後に、すごく丁寧な解説を作り、全員に配ったことがあります。僕は半分ぐらいの生徒は解説を読んでいるだろうと思ったんです。あるとき「解説を読みましたか」という質問をしたらほとんど読んでないことが分かってものすごくショックだった。

 そこで全員に解説を配るのをやめたんです。最初は、解説を掲示しました。すると量が多いので、プリントしてほしいという生徒が出てきます。次にうちの学年には186名の生徒がいるのですが、あえて100部限定でここへ置いておくからねと言ったら、あっという間になくなったんです。その100人はたぶん読むと思うんです。もちろんその後で来た子にもあげます。だから全員に情報を与えてほとんど読まれないよりは、情報を限定して、読みたいという気持ちを起こさせるほうがいいんだなということが分かった。

 話をつなげると、板書をしたりとか丁寧に説明するということを与え過ぎちゃうと安心しちゃうんですよね。ここ、足りないから自分でやらなきゃというバランスが取れなくなってくるので。完璧でないほうがいい。その中途半端な状態で、でも生徒はそのバランスを分かっているというか、どれだけ先生に依存して、どれだけまだ足りていないのかということを自分の中で理解し、自ら足りない部分を補っていくということが大事だと思うんです。

 教えていないようで、エッセンスのところは結果的に教えていることと変わらない。でも生徒は教えられているとは思わない。自分たちでレールを敷いていると思う。そこがまず自立への第一歩としてすごく大事かなと思います。僕がずっと教えてきた高3だからできるわけではありません。中1でも信頼し、任せるスタンスで接すれば、生徒たちで授業ができます。

「勉強ができない」のと「テストの点が取れない」のは違う

藤原:都立の中高一貫校で学力が高いからできるということある?

山本:僕は、それは違うかなと思っています。いわゆる学力の低いところというのはテストの点数が取れないだけだと思うので、テストの点と好奇心がうまく回っていけばいいんだと思うんです。

 もちろん、その子たちにもテストは必要なのですが、ただここを教えました、はい、テストします、ここは教えました、テストやります、というのが苦手な子もいる。でもその子は勉強ができないのではなくて、テストができないだけ。一方で、テストができる子もいるし、集中して短期間で脳みそを広げていく子もいる。

 実際に、僕の考えを取り入れて授業を始めている公立学校の先生もいます。藤原先生はどうお思いですか。「よのなか科」が例えば本当に底辺校でできるかと問われたら。

“ストリート系”の子のほうがいいことを言う

藤原:大阪府の知事だった橋下徹さんに頼まれて一時、特別顧問という立場だったのですが、高校については、生徒指導の困難な学校だけを回って「よのなか科」をやらせてもらいました。

 「ハンバーガー店の店長になってみよう」という、一番典型的な授業をやって見せたり、殺人事件を犯した少年をどう裁くかということをやったりしたんですね。

 「よのなか科」のような授業は、成績優秀児だけが意見を述べるのかというとそうではない。ストリート系、要するに結構やんちゃで街を俯瞰的に見てる子のほうが、ハンバーガー店の出店について意外といいことを言う。あるいはいつもずっと黙っているような子が、実はおばあちゃんを介護していて、「安楽死の是非」みたいなテーマのときにすごい本音の発言をしたりする。

 また大人が授業に入ってると、大人たちが生徒の意見を引き出してくれるようなところもありますね。例えば先の安楽死の是非のような授業では、50代、60代になると何人かはそういう介護や看取りの経験をしていますので、自身の実体験を踏まえて同じ班の子に話してくれる。普通、教員が話しがちな「べき論」とは違うリアルな話になるので、子供たちの意識が吸い寄せられる。
 そういうことを何度も経験したので、よのなか科はどちらかというとストリート系な感じがあるんですね。

山本:なるほど。