うちの会社の話をしよう。今年の4月には、国内で1000人くらいの新入社員が入社したんだ。自慢じゃないけれど、うちの試験を突破するのは結構難しいんだよ。
入社すると、最初の約半年間は頭を抱えるほど難しい研修を課す。ほかの会社では3年かけないと得られないような経験を、半年弱で体得できるように圧縮したプログラムだ。当然厳しい内容だが、理不尽ではない。現に、ほとんどの社員は乗り越えていく。
僕はこれまで、研修を突破できずに留まっている社員には、容赦なく厳しい言葉を浴びせてきた。言葉で殴りつけるくらいの気持ちでやってきたな。それで奮起すると考えていたし、事実、それで結果を出した社員が大勢いたからね。
ただ、叱咤が通じない人たちが増えてきた。彼らは既に諦めてしまっている。周りが厳しく接するほど、彼らはやる気をなくしていく。完全についていけなくなった後、こう言うんだ。「自分はこの仕事に向いていない」とね。そして転職していく。言葉は悪いが、一つ目の職場から逃げ出すんだ。
「俺は理数系に向いていない」から始まる
この話を聞いて「何がおかしいんだ。当たり前の発想じゃないか」と感じた人は、自分が小学生だった頃を思い出してほしい。学校の勉強で分からないところがあったとき、同じように「自分は勉強に向いていない」と諦めただろうか。負けてたまるかと頑張ったり、分からないことが不安で、先生や親に泣きついて教えてもらったりしたんじゃないだろうか。少なくとも、それなりの大学を出てうちのような会社に来た人材は、小学校時代に「勉強に向いていない」と諦めなかったはずだ。
編集:私は割り算で躓いたときに、不安にかられて親に泣きついて勉強しました。しかし結局は、中学に入ってから数学や物理などの理数系科目についていけなくなり、文系に進むしかありませんでした。その時にはもう、小学生のときのように、「この勉強ができないととんでもないことになる」という恐怖はなくなっていました。
牧野:そう。大抵の人は中学生くらいから変わってくるんだ。「理数系は向いていない」「英語ができなくても困らない」と自分に言い聞かせて、結果が出せないものから目を背けていく。20代前半にもなると、適性を理由に諦めるのが癖になってしまっている。
編集:返す言葉がありません。「勉強だけがすべてじゃない」という言葉を、学生時代の私は、勉強しないことの言い訳として使っていました。
書いたものを提出せず怒られた生意気な小学生
牧野:君と同じような経験を、多くの若者がしているだろう。僕も同じだ。いや、僕の場合はもっとタチが悪い(笑)
僕は小学校のとき習字を習っていたんだよ。始めたばかりのころは、それはもう誉められまくっていたね。あっという間に初段になったんだよ。「土」「川」なんて字を書いては「躍動感がある!」なんて煽てられて天狗になっていたんだ。
学年が上がると少しずつ様子が変わってくる。「初日の出」とか、文字数が増えていくんだ。そうなると躍動感だけでどうにかなるものではなく、正しい型が必要になる。模範解答があるから、先生の指導方法も目指す型もあらかじめ決まっている。だから、自分でもこれを提出したらどう直されるかっていうのが分かってしまった。正確には、分かったつもりになった、かな。
編集:それで、小学生の牧野さんはどうされたんですか?
牧野:先生に提出しなくなった。
目指すべきゴールは見えていて、それに自分の技術が届いていないだけだから、独力でそこを目指せる、という理屈だね。「どうせ見せたってココを直されるんでしょ、そんなこと分かっているよ」と。生意気だよね(笑)
だから、習字教室に行って、書き始めて、「これは違うな」「もっとこう書かなきゃな」なんて考えながら、書いては捨てて書いては捨ててを繰り返す。20枚くらい書くといい時間になっているから、「先生、僕帰ります」と。
編集:普通の小学生では選べない行動ですね。
牧野:「お前は習いに来ているんだぞ」と先生にこっぴどく怒られたよ。あとから思えば、できない自分という格好悪いものを、人の目に晒すのが嫌だったんだろうね。だからもっともらしい理屈をつけて隠す。自分でも恥ずかしいけれど、誰でもそういうところはある。今の僕だってそう。そういう気持ちが自分の中にあるのを認めた上で、それを極小化できるかどうかだと思うな。
編集:聞きたいことはまだまだ尽きません。しかし、ページの都合で今回はこの辺りで。次回、この続きを聞かせてください。
Powered by リゾーム?