ROEが注目を浴びている。Return On Equity、すなわち自己資本利益率を投資の尺度とすべきであるという動きである。
外国人投資家が増加するのに伴ってROEが意識され始めていたものの、その注目度が最近になってますます加速しているのだ。
伊藤レポートの影響が大きい。2014年8月に発表された経産省による報告書である。8%を最低限の目標値としたことが、低いROEを継続してきた日本企業に大きな刺激を与えたのである。
この伊藤レポートのための「持続的成長への競争力とインセンティブ~企業と投資家の望ましい関係構築~」プロジェクトは、公表の1年前、2013年7月に発足している。6月の安倍内閣による「日本再興戦略-JAPAN is BACK-」の発表直後から経済産業省が作業を始めていた事実が注目される。金融庁による「日本版スチュワードシップ・コードに関する有識者検討会」の発足とほぼ同時期である。「コーポレートガバナンス・コードの策定に関する有識者会議」の始まった2014年8月からすれば約1年前のことになる。伊藤レポートが、スチュワードシップ・コード、コーポレートガバナンス・コードとともに、攻めのコーポレートガバナンスを後押しするものとして注目されるゆえんである。時系列で一覧すると、以下のとおりとなる。
2013年6月 |
日本再興戦略
-JAPAN is BACK-
|
収益面での評価が高い銘柄のインデックスの設定の働きかけ |
2014年1月 |
JPX日経インデックス400 |
3年平均ROEが選定指標の一つ |
2014年2月 |
日本版スチュワードシップ・コード |
機関投資家が投資先企業の資本効率を高めることなどを目的とした対話を投資先企業との間で行うことを要求(指針4-1) |
2014年6月 |
「日本再興戦略」改訂2014
-未来への挑戦- |
「グローバル水準のROEの達成」に言及 |
2014年8月 |
伊藤レポート |
「最低限8%を上回るROEを達成することに各企業はコミットすべき」 |
2015年6月 |
コーポレートガバナンス・コード |
資本政策の基本的な方針の説明、収益力・資本効率等に関する目標の提示などを要求 |
初めに、2013年の「日本再興戦略-JAPAN is BACK-」があった。そのなかにおいて、収益面での評価が高い銘柄のインデックスの設定を働きかけたことが直ちにJPX日経インデックス400に結実している。
次いで、2014年の「『日本再興戦略』 改訂2014-未来への挑戦-」のなかにおいて、その狙いとする企業の「稼ぐ力」の向上の1つの目安として「グローバル水準のROEの達成」を掲げている。その2カ月後に出たのが伊藤レポートという順序なのである。
実際に、経営目標としてROEを重視する企業は、2012年度には51.0%にとどまっていたが、2015年度には63.6%にまで増加している(2012年度および2015年度の生命保険協会の調査結果)。
さらに2015年に策定されたコーポレートガバナンス・コードへの対応として、多くの企業がROEを重視する姿勢を見せている。上場企業の41.0%がROEの目標値を開示しているのだ(2015年度の生命保険協会の調査結果)。中には16%以上のROEを目指すと公表する企業もある。これが伊藤レポートの「最低限8%」を大きく上回った数字であることは言うまでもない。
しかし、ROEに対しては警戒を呼びかける意見もある。過度にROEを重視することに対して、その弊害が指摘されてもいるのだ。ショートターミズムへの傾斜を恐れているからである。そもそもアベノミクスが目指している中長期的な企業価値の向上が果たせなくなる結果になってしまうというのだ。
そこで、今回はROEを巡る最新動向を概観した上で、「ROE信仰」の弊害について考えてみたい。
ROE重視の背景:日本企業のROE
伊藤レポートによると、日本企業のROEは、以下のとおり欧米企業に比べて非常に低い水準にある。
各国企業のROE平均(2012年)
米国 |
22.6% |
欧州 |
15.0% |
日本 |
5.3% |
(注1)2012年暦年の本決算実績ベース、金融・不動産除く(注2)対象=TOPIX500、S&P500、Bloomberg European 500 Index対象の企業のうち、必要なデータを取得できた企業
出所:伊藤レポート
同レポートは、日本企業のROEの低さが低い収益性(売上高利益率)に起因しているという。
もともと日本企業の低いROEに対しては、海外機関投資家から批判の声が強かった。2013年度には、企業業績の改善に伴い日本企業のROE平均は約8%に上昇したものの、依然として欧米企業に比べると低い水準にあり、海外機関投資家を納得させているとまでは言いがたい状況である。
コーポレートガバナンス改革でROE重視の傾向が加速
アベノミクスのもと、日本企業のROEを向上させるための改革が行われてきた。上記時系列の一覧表のとおりである。
JPX日経インデックス400は2014年1月から算出が開始された。「投資者にとって投資魅力の高い会社」を400銘柄選定している。重要なのは、400銘柄の選定基準となる定量的な指標として3年累積営業利益や時価総額と並んで「3年平均ROE」を挙げていることである。
JPX日経インデックス400は、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の運用インデックスの1つとして追加された。また、日銀が買い入れている上場投資信託(ETF)にも追加された。そのため、この400銘柄に選定されるか否かは株価を左右する。したがって、経営者にとっては「投資者にとって投資魅力の高い会社」に選ばれることは重大事である。その結果、これまで日本の投資指標として有効性が低かったROEに対する日本企業の意識が変わり、ROEが注目を集めるきっかけになったと言われている。
日本版スチュワードシップ・コードは、JPX日経インデックス400の翌月である2014年2月に制定された。同コードにより、ROEは資本効率の向上という観点から機関投資家との対話の主要なテーマの1つとなっており、その結果ROE重視の傾向に拍車がかかっている。今では、ROEは「株主還元策」に次ぐ株主総会における焦点とすらいわれているのだ。
その直後、2014年8月に発表されたのが伊藤レポートである。「『日本再興戦略』改訂2014-未来への挑戦-」が目標として掲げた「グローバル水準のROEの達成」を伊藤レポートは、「最低限8%」と具体的な数値をあげて提言している。
伊藤レポートの反響は非常に大きく、経営者のROEに対する意識はこれで決定的に高まったと言われている。実際にも、伊藤レポート公表後、ROEを経営指標として掲げ、目標値の設定や開示をする企業が増えてきている。
最後がコーポレートガバナンス・コードである。2015年6月に施行された。ここでは、ROEという言葉は使われていないが、収益力・資本効率等の向上という観点が取り入れられている。日本の株式市場の低迷や資本効率の低さといった問題意識を踏まえてのものと指摘されている。
例えば、コーポレートガバナンス・コードの基本原則4は、取締役会に対し、「収益力・資本効率等の改善を図るべく(中略)役割・責務を適切に果たす」ことを求めている。また、同コードの原則1-3は資本政策の基本的な方針の説明を求め、原則5-2は収益力・資本効率等に関する目標の提示を求めている。
こういった一連のコーポレートガバナンス改革を受けて、日本企業のROE重視の傾向はますます強まっているのである。
企業がROEの目標値を開示するように
上述したとおり、コーポレートガバナンス・コードは、収益力・資本効率等の向上という観点から、資本政策の基本的な方針の説明や収益力・資本効率等に関する目標の提示などを求めている(原則1-3、5-2)ものの、これらの説明、提示に際し、ROEを指標として用いることは求めてはいない。
しかしながら、実際には、ROEを重要な指標と捉えて、ROEを用いた具体的な説明や目標値の提示を行う企業が多く存在する。
例えば、エーザイは、コーポレートガバナンスに関する報告書において、資本政策の基本方針(原則1-3)の開示として、以下のように「中長期的なROE経営」を目指すことを説明している。
…日常の運営における資本政策は、株主価値向上に資する「中長期的なROE経営」、「持続的・安定的な株主還元」、「成長のための投資採択基準」を軸に展開しています。
当社は、ROEを持続的な株主価値の創造に関わる重要な指標と捉えています。「中長期的なROE経営」では、売上収益利益率(マージン)、財務レバレッジ、総資産回転率(ターンオーバー)を常に改善し、中長期的に資本コストを上回るROE…をめざしていきます。…
また、コーポレートガバナンス・コードは、原則5-2が提示を求める収益力・資本効率等に関し、具体的な目標値を開示することまでは求めていないものの、2015年度の生命保険協会の調査によると、上場企業の41.0%がROEの目標値を開示している。以下の上場企業がその例である。
企業名 |
開示内容 |
大和ハウス工業 |
中期経営計画でROE10%以上を目標 |
双日 |
中期経営計画でROE8%以上を目標 |
荏原製作所 |
ROEの目標値を過去の実績と対比して記載 |
日本企業のROE重視の傾向は、このようなコーポレートガバナンス・コード対応に端的に現れているといえる。
株主総会における議決権行使の変化
ROE重視の傾向は、株主総会における議決権行使にも変化をもたらしている。
例えば、議決権行使助言会社である米インスティテューショナル・シェアホルダー・サービシーズ(ISS)は、2015年2月から、過去5期のROEの平均値が5%を下回る企業の経営トップの取締役選任議案について、原則として反対することを推奨している。
この影響を受けて、2015年の株主総会では、低ROE企業の経営トップの取締役選任議案に反対する株主が急増していた。前期ROEが3%であったキリンホールディングスでは、取締役の選任議案において、社長への反対票が2014年の3%から17%に増加した。また、前期ROEが0.6%であった東洋製缶グループホールディングスでは、取締役の選任議案において、社長への賛成票が13%低下した。
議決権行使については、議決権行使助言会社のみならず、国内の機関投資家にも変化が見られる。例えば、信託銀行は、ROE5%未満の企業に対し、取締役の選任議案に反対することを検討するなど、ROEを重視した議決権行使を行う旨を明らかにしている。
以上のように、ROEが低い企業においては、何らかの対応が必要な状況になっている。なお、前述のISSについては既視感がある。社外取締役の導入の経緯とそっくりという点だ。
ROEを高めるための自社株買い
ROEが重視される傾向の中、自己資本を減らすことで短期的にROEの向上を図ろうとする企業が散見される。
ROEの計算式は、以下のとおりである。
ROEを上げるには、当期純利益を増やすという方法ではなく、自己資本を減らすという方法もあるため、当期純利益を増やすよりも自社株買いや増配などにより自己資本を減らす方が簡単にROEを上げることができる。実際にそのように行動する企業が出てきても不思議ではない。ここに問題の根がある。
自社株買いや増配の増加傾向はそうした見方を裏付ける。上場企業全体の自己株式取得額は、6年連続で増加し、2015年度は8年ぶりに過去最高を更新した。
また、上場企業全体の配当総額は、3年連続で過去最高を更新し、初めて10兆円を超えた。
しかし、このように自社株買いや増配によって自己資本を減らすと負債比率が高まるため、将来的な損失や倒産の可能性も高まることになる。例えば、米コダックは、ROEを重視するあまりに、投資の資金がないのにもかかわらず自社株買いなどを行い、2012年には破産申請にまで至ってしまったと言われている。
そもそも、コーポレートガバナンス・コードが「収益力・資本効率等」の改善やそれに関する目標の提示を求めているのは、ROEの向上だけを目的とするものではないからである。ROEだけでは偏りがあり、売上高利益率などの指標と合わせてバランスをとっていくことが重要との指摘がなされたことを踏まえ、「資本効率」だけでなく「収益力」の目標の提示を求めているのである。
「ROE信仰」とショートターミズム
このようなコーポレートガバナンス・コードが重視する「収益力」を伴わないROEの向上は、ショートターミズムを助長するといわれる。
自社株買いや増配によって内部留保をはき出すことは、中長期的な企業の成長のための研究開発費などの成長投資に充てる資金が少なくなることを意味するからである。その結果、短期的に株価を維持することに終わるような経営につながるおそれがあるのだ。
コーポレートガバナンス・コードの目的は、言うまでもなく、上場会社の「持続的な成長と中長期的な企業価値の向上」の実現にある。短期的にROEを引き上げることによって中長期的な企業価値の向上が犠牲になるのでは、コーポレートガバナンス・コードの目的に反していることが明らかである。ましてや短期的にROEを向上させるために資金を過剰に流出させ、研究開発費などの成長投資が不十分になってしまっては問題外である。あくまでも企業が長期にわたって持続的に成長していくことを主眼に置いて安定的にROEを高めていくことが必要なのである。
「日本型コーポレートガバナンス」の良さ
ROEは、主に株主の視点から会社を評価するための指標といえる。しかしながら、会社を正しく評価するには、従業員や顧客の視点を考慮することも必要であろう。
コーポレートガバナンス・コードも、上場会社が持続的な成長と中長期的な企業価値の創出を達成するために、従業員、顧客など様々な「ステークホルダーとの適切な協働に努める」こと(基本原則2)や「様々なステークホルダーへの価値創造に配慮した経営を行いつつ中長期的な企業価値向上を図る」(原則2-1)ことを求めている。この点については、日本では伝統的に様々なステークホルダーの権利や立場を幅広く尊重する企業文化・風土が根強いことを反映したものと指摘されていることが注目される。
また、伊藤レポートも、一方で「最低限8%を上回るROE」の達成を提言しながらも、「様々なステークホルダー価値を高め、長期的な株主価値に結びつくという『企業価値経営』を実現することが肝要である」としている。伊藤レポート作成の中心を担った伊藤邦雄氏自身も、ROEの数値ばかりを重視しているのではなく、人材など無形資産の蓄積や顧客との対話が重要であると明言している。
ROEの数値は、株主以外のステークホルダーの視点を正確に反映しているとはいえない。
短期的にROEを上げることは、前述した自己資本を減らす方法によるほか、人件費や研究開発費などのコストをカットして当期純利益を上げることでも可能である。例えば、1980年代、日本に先立ってROE重視の傾向が強まっていた米国では、ゼネラル・エレクトリック社やボーイング社が大規模な自社株買いと同時に、大規模な人員削減を行った。このようなやり方によっても、ROEの数値自体は向上し、短期的には株価も上昇するのである。
しかしながら、このような結果は、「中長期的な企業価値向上」には貢献するものではなく、顧客や長期的な株式保有を志向する株主の望むところとはいえない。また、コーポレートガバナンス・コードの指向するところでもない。
ROEを経営指標にしないという選択
そもそも、ROEは経営指標の一つにすぎないのである。
伊藤レポートも、「ROEは経営の目的ではなく結果」であるとしている。ROEを経営指標にしないという選択も可能なのである。実際に、2015年度の生命保険協会の調査によると、ROEの目標値を設定していない上場企業は39.5%も存在する。
ROEの目標値を持たない理由で最も多いのは、「利益の絶対額を重視している」というものである。例えば、トラスコ中山は、第52期定時株主総会の招集通知参考資料において、ROEを経営指標としていない理由を以下のように説明している。
当社はROEを経営指標としない経営方針をとっています。よってROEを上げるための自己資本を変動させる短期的な戦略は取りません。継続的な成長分野への投資を行うことで利益の拡大を目指し、長期的かつ安定的な上昇を狙う戦略を取っています。また、それこそが企業価値の拡大に直結するものと考えております。
同社は、上記の説明と併せて、同社の株価が順調に推移していること示すため、同業他社との株価をグラフで比較している。
株主に対して説得力ある説明をすることができれば、ROEを経営指標としないことは十分に合理的な選択肢の一つなのである。
中長期的な企業価値向上とROEの両立
以前にも「激変する『株式持ち合い』『内部昇進者中心の取締役会』」で述べたとおり、日本企業は、従業員や取引先など株主以外のステークホルダーとの関係を重視してきた。これは「日本型コーポレートガバナンス」の良い点である。上述したとおり、コーポレートガバナンス・コードも、従業員、顧客などの「様々なステークホルダーへの価値創造に配慮」する(原則2-1)ことを求めているのである。
株主資本主義といわれる米国企業であっても、株主以外のステークホルダーとの関係を先ず重視している企業がある。例えば、ジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)だ。同社は、我が信条(Our Credo)において、株主以前に顧客、従業員、地域社会に対しても責任があるとして、株主以外のステークホルダーを重視する企業理念を明らかにしている。ただし、同社のROEが高い事実(約20%)が背景として存在していることも重視しなければならない。
また、既に述べたとおり、日本企業の低ROEの主な原因は、事業の収益力の低さにあるのであって、必ずしも自社株買いが足りないとか人件費の削減が足りないといったことによるものではない。もちろんROEは会社の収益力を表すものとして重要な指標である。しかし、ROEはその会社の企業価値の全てを表すものではない。
ROEを経営指標に利用するとしても、ROEにとらわれてはならない。自社の企業価値を表す指標として何が重要なのかは、会社経営者自身が、中長期的視点をもって、自律的に考えてゆくべきことである。ステークホルダー重視という日本型コーポレートガバナンスの良さを活かした「中長期的な企業価値の向上」を目指す「真・日本型会社システム」に一歩踏み出す企業が少しでも増えていくことが期待される。
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