「負け犬」に「リア充」──。成果主義の導入やSNS(交流サイト)の普及などで他人との差をいやでも意識してしまう現代社会には、劣等感や優越感を表す新たな言葉が次々と生まれている。

 禅の言葉に妄想することなかれという「莫妄想(まくもうぞう)」がある。住職で庭園デザイナーの枡野俊明さんは、劣等感も優越感も妄想と説く。枡野さんに他人との優劣という妄想に苛さいなまれないための術を聞いた。

(聞き手は、真弓重孝=日経マネー副編集長)

(記事の最後に1万円の商品券が10名様など51名の方にプレゼントが当たるアンケートの案内があります)

<b>枡野 俊明(ますの・しゅんみょう)氏</b><br /> 建功寺住職、庭園デザイナー、多摩美術大学教授。1953年神奈川県生まれ。玉川大学農学部卒業後、大本山總持寺で修行、現在に至る。庭園デザイナーとしても活躍し、「禅の庭」の創作活動は1999年に芸術選奨文部大臣新人賞、2006年にドイツ・国功労勲章功労十字小綬章を受章するなど国内外で高い評価を得ている。作品はカナダ大使館、セルリアンタワー東急ホテル日本庭園などに採用されている。著書に『考える前に動く習慣』『劣等感という妄想』など多数ある。(写真:高山 透、以下同)
枡野 俊明(ますの・しゅんみょう)氏
建功寺住職、庭園デザイナー、多摩美術大学教授。1953年神奈川県生まれ。玉川大学農学部卒業後、大本山總持寺で修行、現在に至る。庭園デザイナーとしても活躍し、「禅の庭」の創作活動は1999年に芸術選奨文部大臣新人賞、2006年にドイツ・国功労勲章功労十字小綬章を受章するなど国内外で高い評価を得ている。作品はカナダ大使館、セルリアンタワー東急ホテル日本庭園などに採用されている。著書に『考える前に動く習慣』『劣等感という妄想』など多数ある。(写真:高山 透、以下同)

ネットの普及もあり、現代人は「他人がどう見ているのか」に気を取られ、「人によく見られたい」「人より劣っている部分を隠したい」という欲求が日増しに強くなっている気がします。

 「隣の芝生は青く見える」という言葉が以前から使われたように、他人を羨む気持ちは古今東西ありました。ところが現代は情報化技術があまりにも進み、世の中の標準と自分の状況を簡単に比べられるようになりました。メディアも平均年収や結婚年齢などとはやし立てます。

自分以上でも以下でもない

 ネットで情報が瞬時に広がってしまうのが現代の社会。世間に比べて自分が劣っていると思える部分については、なるべくさらしたくないという気持ちになるのは仕方がない面があります。とはいえ今のあなたは、あなた以上でも以下でもないのです。

 禅に「露(ろ)」という言葉があります。あるがままの自分という意味で、「露堂々(ろどうどう)」というのは自分以下でも以上でもない裸の自分をさらけ出すことを表します。ところが現代社会に生きる私たちは、露堂々とするどころか心に鎧よろいをまとって、他人から攻撃されないことばかりに気を取られています。

 しかし、どんなに取り繕っても、今の姿があなた自身なのです。あなたがたとえ過去に大成功していようとも、逆に大きな失敗をしていたとしても、それはもう見ることのできない姿で、今のあなたとは何の関係もありません。

過去の成功にしがみつくのも、逆に失敗に引きずられてしまうのも、どちらも意味がない。

 禅宗の曹洞宗を開祖した道元禅師は「前後際断(ぜんごさいだん)」と、現在は過去(前際)と未来(後際)を断ち切られているとし、現在を過去や未来と対比させて認識することを否定しています。道元禅師は薪まきと灰を例に、その真理を説きます。薪が燃えると灰になります。一連の変化をみて、我々は「灰は元々は薪だった」と捉えます。

薪の法位、灰の法位

 しかし、道元禅師は「薪は薪の法位にあり、灰は灰の法位にあり」という言葉を使って、そうした見方を否定します。法位とは、存在するあるがままの姿を意味します。木から薪をつくり、その薪を燃やして灰に姿を変えたとしても、薪は薪、灰は灰以外の存在になり得ません。目の前の姿にこそ、その存在の真理があるのです。

今の自分の姿に感じる不甲斐なさや引け目を克服するには、どうしたらよいのでしょうか。

 不甲斐なさや、やるせなさをいくら嘆いたところで、行動に出ない限り状況は変わりません。あれこれ考えても何も始まらないのです。ともかく行動に出るのです。

 何かに取り組み始める時には、不安がつきものです。しかし、不安を抱えている人に「それはどんなものか教えてください」と言うと、ほとんどの人は具体的に言い表すことに四苦八苦してしまいます。心の中で考えていることなので実体がないからです。

 禅では「禅即行動(ぜんそくこうどう)」と、まず行動に踏み出すことを説きます。動くことで、まず自分には何ができて何ができないのかが明確になります。それによって、できないことをできるようにするために、何をしたらいいのか具体的な対応策を作り出すことができます。

 禅の 「即今(そっこん)」「当処(とうしょ)」「自己」という言葉は、「今」「ここで」「私が」ということを意味します。人は往々にして真っ先に取り組まなくてはならないことを後回しにしがちです。しかし、いずれはやらなくてはならないのです。

 それならば即今。さっさと済ませてしまった方が、心も身軽になります。すぐに取り組むには当処、その場で取り組むのです。自分の問題は自分が主体になって取り組まないと解決しません。ですから自己なのです。