今、英語教育においては、「英語を英語で」「文法指導を簡潔に」「アクティブラーニングを」などといった言葉が飛び交っています。これらは、いずれもこれまでの英語教育の手法を根底から揺るがす指導法で、またICT(Information Communication Technology)の急速な発達もあって、関係者は文字通り手探りの状態になりながら、懸命にこれらの手法を理解し、授業に活かそうとしています。

 ところが、驚くべきことに、もう30年も前からこれらの方法を当たり前のように実践していた語学教育があるのです。それが、「外国人に対する日本語教育」です。

日本語教育の中身とは?

 私がこの事実を知ったのは、今から5年ほど前のことでした。私は長年「learner-friendly(学習者に優しい)」をコンセプトにして、詳細にわたる文法解説・演習を大前提とするこれまでの発想と全く異なる視点から「シンプルな文法」と「母語の活用」を2つの柱として、新しい英語教育の形を研究していたのですが、その中で、知人の紹介を得て「日本語教育」を専門とする先生と一緒に仕事をすることになったのです。

 そこで、まずはお互いの考え方を知ることからということになり、私は(いつものパターンなのですが)短刀直入に、文法の役割についてどう思うかと彼に尋ねたわけです。すると、彼はたいして驚きもせずに、「今でも例外なケースは残っていますが、基本的に日本語教育では文法を教えません。これは海外で日本語を教えるときも同じです」と言ってのけたのです。

 私は、唖然としました。灯台下暗しというか不勉強ここに極まれりというか、同じ日本国内で実施されている言語教育でありながら、英語教育の方では「文法指導の是非」について何十年にもわたって議論を交わしてきたというのに、日本語教育ではとうの昔にその段階をクリアーし、「文法を教えない教育」を展開しているというのです。

運用中心の学習

 彼は、それを「運用中心の教え方」と表現していましたが、それがどのようなものかというと、イラストなどを使い言葉が使用されている状況をはっきりとさせておいて、「こういう場面でこういう事を伝えたいときには、このような日本語を使う」という訓練を行うというのです。しかも、その訓練をできる限り、ペアやグループで実施するのです。生徒同士で音読させ合ったり、ロールプレイ(話者の役割を変えて会話する)させたり、互いにスピーチをさせたり、プレゼンやQ&Aを行わせたりして、徹底的に使わせることによって身に付けさせるというのです。

 文法的な練習がないわけではありませんが、英語教育のように文法解説で固め上げたようなものではなく、文型として、パターン・プラクティス的に練習するということでした。