前回まで量的緩和について見てきたが、中央銀行が様々な資産を大量に買い、その価格を引き上げるという効果(「資産サイド」の効果)を除き、十分に説得的な政策波及経路は見当たらなかった。しかし、リフレ派の政策提言にはもう1つ、重要な柱があった。それはインフレ・ターゲティング(以下、IT)の導入である。今回はこの点について検討しよう。

インフレ期待の役割

 初めに、インフレ期待が果たす役割を見ておこう。フィッシャー方程式(*注1)から明らかな通り、名目金利が下限に達してそれ以上の低下が望めない状況下、(総需要に影響を与える)実質金利を下げるには、インフレ期待を引き上げるしかない。

(*注1)「名目金利 = 実質金利 + 期待インフレ率」で表される式。第5回参照。

 このメカニズムは名目金利を引き下げる伝統的な金融緩和策とは全く異なるが、経済主体が反応するのは量ではなく価格(この場合は実質金利)だという、ミクロ経済学の基本原則は共有している。従って、量的緩和のケースとは異なり、政策効果の有無について疑念が生じる余地はない。

 この他にももう1つ、インフレ期待には重要な役割があるとされている。それはインフレ率の決定である。「期待で修正されたフィリップス・カーブ」(expectations-augmented Phillips curve、EAPC)仮説によると、インフレ期待の上昇は現実のインフレ率を直接引き上げる(*注2)。  

(*注2)EAPCは多くのマクロ経済学の教科書で説明されている(例えば齊藤他[2010]参照)。

 つまりインフレ期待が上昇すれば、たとえ総需要(あるいは需給ギャップ)が全く変化しなくても、現実のインフレ率が上方シフトする可能性がある。このようなシフトが生じるのは、労使が賃金交渉をする際、あるいは企業が自社製品の価格を設定する際、将来生じると予想される一般物価水準の変化を勘定に入れるからである(*注3)

(*注3)賃金交渉は企業の製造コストに影響を与え、それを通じて製品価格を動かす。従っていずれの場合も、「インフレ期待 ↑ → 製品価格 ↑ → インフレ率 ↑」というメカニズムが働く。

政策論としての疑問

 しかし、政策論としてこれを見た場合の大きな疑問は、「インフレ期待を操作する政策手段を中央銀行は有しているか」という点である。リフレ派は、「マネタリーベースの増大 → インフレ期待の上昇」という因果関係があると断言したが、もしこれが正しければ答えはイエスになる。

 そしてQQE開始前、そして開始後しばらくの間のデータは、この因果関係と整合的だった。しかし第5回で述べた通り、マネタリーベースとインフレ期待の関係は2014年以降逆転し、マネーの増加とインフレ期待の下落が共存するようになってしまった。つまり、リフレ派が「発見」した両者の相関関係は、因果関係ではなかったのである。

続きを読む 2/4 日銀はなぜITを忌避したのか

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この記事はシリーズ「金融政策の混迷――リフレ派は何を訴え、何を残したか」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。