戦国時代末期から江戸時代にかけて、近江国(現・滋賀県)から全国各地へ進出し、大きな商売を繰り広げた近江商人。「売り手よし 買い手よし 世間よし」の「三方よし」の理念を持ち、進出した地域と共存共栄することで商売の永続を図ってきた。

 その経営理念は、現代の経営者たちにどのように伝えられてきたのか。

 近江商人の流れをくむ現代の経営者として、今回はたねやグループCEO(最高経営責任者)の山本昌仁氏に話を聞いた。近江八幡市で江戸時代からの商家であった山本家は、明治初期に和菓子作りに進出、現在は和菓子の「たねや」、洋菓子の「クラブハリエ」を直営店、百貨店などで東京から福岡まで多店舗展開する。2015年には、発祥の地である滋賀県近江八幡市に「自然に学ぶ」をテーマにした「ラ コリーナ近江八幡」をオープン。19年の集客が300万人を超え、滋賀県でもトップクラスの観光スポットに育てた。新たな試みを次々と成功させている山本CEOの経営理念はどのように育まれてきたのか。

近江八幡の和菓子店だったたねやが大きく成長するきっかけになったのは、山本CEOのお父様である、山本德次名誉会長が1979年に近江八幡から家族で引っ越し、八日市(東近江市)の新店舗を成功させたことだと思います。山本CEOはまだ小学生だったそうですね。

山本昌仁CEO(以下、山本氏):当時、守山や大津にも支店がありましたが、あまりうまくいっていませんでした。どうしたらいいかと考えた結果、父は八日市の新店に全力投球することを決めたのです。当時は新店を出すといっても、銀行からお金を貸してもらえるほどの会社ではありませんでしたから、家から家財から身の回りにあるものを全部売って資金をつくり、八日市に移り住みました。

 小学4年生でしたので、引っ越すと友達と離ればなれになる。そこがつらかったですね。八日市に小さな家を借りたのですが、何もかも売りはらって、引っ越して新店を出すって、子供ながらに父の覚悟を見た感じでしたね。

<span class="fontBold">やまもと・まさひと</span><br>たねやグループCEO(最高経営責任者)。1969年、滋賀県近江八幡市でたねや創業家の10代目として生まれる。19歳より10年間、和菓子作りの修業を重ねる。25歳のとき全国菓子大博覧会にて「名誉総裁工芸文化賞」を最年少受賞。2002年、洋菓子のクラブハリエ社長、2011年たねや4代目を継承、2013年より現職(写真:水野浩志)
やまもと・まさひと
たねやグループCEO(最高経営責任者)。1969年、滋賀県近江八幡市でたねや創業家の10代目として生まれる。19歳より10年間、和菓子作りの修業を重ねる。25歳のとき全国菓子大博覧会にて「名誉総裁工芸文化賞」を最年少受賞。2002年、洋菓子のクラブハリエ社長、2011年たねや4代目を継承、2013年より現職(写真:水野浩志)

知らない土地で知名度を高めるために、どんなものを買うにも「たねや」で領収書をもらうように言われたとか。

山本氏:まずオープン前にローラー作戦で、ご近所に手紙とお菓子を添えて1軒1軒ご挨拶に回りました。近江八幡でこそ、たねやはよく知ってもらっていたけれど、八日市では全く誰も知らない店ですからね。100円の文房具を買うときも、「名前を知ってもらうために『たねや』で領収書をもらってこい」と言われました。

 おかげさまで、オープン後しばらくは、「これ、菓子作りが間に合うかな」というくらい混み合いました。たねやにとっては大きな成功だったと思います。

近江商人は実家と家族を近江に置き、働き手はお店を出す場所に常駐して、何年も近江に帰らずに商売をしました。商売をする土地を知り、地域の一員になることが目的でした。たねやの場合は家ごと引っ越すわけですから、文字通り、地域の一員になっていますね。

山本氏:現地に飛び込んで、現地の味を知り、人を知る。オープン前までにいろいろなことを知ってから商売を始めようという父の考え方はここで固まったのではないでしょうか。たねやはそれをずっと大切にしてきています。そういう意味では近江商人的なやり方ですね。

 84年に東京の日本橋三越本店に出店したときも東京に引っ越しましたし、その次にそごう神戸店に出店したときも近くにマンションを借りて家族で移り住みました。といっても、私は中学生、高校生だったので、受験などの問題もあり、滋賀に残っていました。夏休みや週末だけ、家族のいる東京や神戸に滞在する生活でした。

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