薪(柴)を背負って本を読む少年の像で有名な二宮尊徳(金次郎)。常識や慣習にあらがいながら、後半生を荒廃した農村の復興・再建にささげ、1856年(安政3年)に志半ばのままその生涯を閉じた。しかし明治に入ると、尊徳は勤勉の手本として教科書に載り、神として神社に祭られ、象徴として像が建てられるようになる。その背後には全国で勃興した「報徳社」と、その活動内容の変化が関係していた。  崇敬される尊徳像はどのように創られ、語り継がれてきたのか。研究者である、神奈川県・小田原市立尊徳記念館学芸員の坂井飛鳥氏に聞いた。

尊徳の死後、幕末から明治にかけて全国のさまざまな地域で報徳社が設立されました。尊徳の教えを受け継ぎ、地域の農家が寄り集まってできた団体です。農村の復興と経営を支援することを目的にしていましたが、実際にはお金を融通し合う「講」の役割が大きかったようですね。

坂井飛鳥氏(以下、坂井氏):報徳社のことを私はよく「互助組織」と説明しています。仕組みとしては、報徳社の社員がそれぞれお金を出し合ってプールしておいて、それを元手として、社員にお金を貸し出す。小田原報徳社の場合ですと、だいたい順繰りに、まずAさん、次はBさんという形で、お金を借りることのできるメンバーを交代していく形式でした。ここは始まりが早く、尊徳が存命中の1843年(天保14年)にスタートして、ほぼ同じ形で明治時代まで活動を続けています。報徳仕法の中で報徳金の貸し付けは重要な施策の1つであり、それが多くの報徳社の活動の根幹になりました。

 それだけではなく、興ったそれぞれの土地に必要な機能を、独自に備えていった報徳社は多いです。活動の源流は尊徳にあるのですが、それぞれの土地になじむ形にアレンジしていったところは、地元の人たちの力やアイデアが報徳社の活動の主体であることを示しています。

「負薪(ふしん)読書」の二宮金次郎少年像。本人の意志・業績とは関係なく、「勤勉、倹約して国家に奉仕する理想的な臣民像」として利用された(写真:PIXTA)
「負薪(ふしん)読書」の二宮金次郎少年像。本人の意志・業績とは関係なく、「勤勉、倹約して国家に奉仕する理想的な臣民像」として利用された(写真:PIXTA)

皆で協力して、助け合いながらやっていく方法を尊徳が手本として示したことで、「ああ、ああいう方法があるんだ」と理解した人々が、それぞれの地域に適したやり方を考え始めたということでしょうか。

坂井氏:そうですね。例えば、後に報徳社の中で一大勢力になる遠州地方、今の静岡県西部で始まった報徳社は、尊徳が桜町領(現在の栃木県真岡市)にいたころ、小間使いのようなことを手伝っていた安居院(あぐい)庄七という人物がきっかけになっています。安居院は神奈川・秦野の出身で、報徳仕法に感化され、尊徳のアイデアを活用して家業を立て直した後、神社への寄進を募るため、東海地方を遊歴しました。浜松の下石田村で尊徳の話をしたところ、村人たちが興味を持って「報徳連中」という小さな集まりを立ち上げました。村の中がまとまり、お金の融通や田畑の整備などで協力するようになり、村の立て直しに成功した。それが評判となって、遠州地方の各地に似たような組織ができていったのです。

 最終的には、その遠州のメンバーが尊徳とコンタクトを取ることができて、7人くらいで当時日光に移っていた尊徳の元へ出かけています。各地の報徳仕法の記録の閲覧を許可されてノウハウを学び、また遠州に帰ってその経験を生かしていきます。スタートは尊徳とほぼ関係ないところから始まっていますけれども、途中でお墨付きを得た感じですね。

 その後、尊徳の直系の弟子も関わるようになっていきます。現在の公益社団法人大日本報徳社がある掛川地域で最初のリーダーを務めた岡田家です。掛川の名主だった岡田佐平治は、下石田村の評判を聞いて組織を立ち上げ、息子の岡田良一郎を尊徳の元へ送ります。最晩年の尊徳の弟子として教えを受けた良一郎が、その後の遠州地方のリーダーとして活動し、後に衆議院議員となるなど、絶大な影響力を持つようになります。

 話がちょっと先に飛びますが、大正時代に入るころになると、各地の報徳社がうまく活動できなくなってきて、組織を全国的に統合しようという流れが出てきます。最終的には、岡田良一郎が大きくした大日本報徳社に、全国の報徳社が吸収されていきます。吸収合併の形で全国組織化したのです。現在、全国各地にある報徳社のほとんどは、大日本報徳社の下部組織です。

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