薪を背負って本を読む少年の像で有名な二宮尊徳(金次郎)。合理的発想に基づく再建手法「報徳仕法」によって荒廃した農村の復興に挑んだ後半生は、悪戦苦闘の連続だった。その中で、尊徳は何を考え、行動してきたのか。
 持続可能な経営の要諦を先人に学ぶ「江戸のSDGs」、今回は、なかなか変わらない現実に立ち向かい続けた尊徳の理念と思想に学ぶ。研究者である立正大学非常勤講師の松尾公就氏に聞いた。

2020年12月、JR小田原駅前に開業した商業施設内に新たに完成した、二宮金次郎夫婦像。桜町領(現・栃木県真岡市の一部)へ、人生を懸けて出立した決意の姿を表している。小田原の人々にとって、金次郎は今でも尊敬すべき対象だ

前回の続きになりますが、二宮尊徳が実行した常識外れの再建手法として、天保の飢饉(ききん)の後、小田原藩の領民に対して行った「救急仕法」があると思います。困窮の具合によって家を区分して金や米を貸し出しましたが、危機を脱した後、少なく貸した家から多額を、多く貸した家から少額を返済させています。これは現代の人々には受け入れられないような施策だと思うのですが。

松尾公就氏(以下、松尾氏):烏山藩(現・栃木県那須烏山市)でも飢饉対策として同じようなことをしていますね。まず家ごとに穀物の貯蓄量と家内人数を調査して、暮らしぶりを「無難」「中難」「極難」に分ける。無難はつまり「難が無い」ということで1人5俵以上の穀物の貯えがある比較的暮らしが楽な家、「中難」は1人当たりの貯穀が5俵未満の家、「極難」は貯穀がなく「極めて難儀している」家。例えば飢饉の際に1人当たりの貯穀5俵を基準にして、足りない分を補うようにそれぞれの家に貸し付けました。当然、極難の家が最も多く借りることになり、無難はまったく借りなくてよい家ということになります。

 ところが返済する際には、無難の家が1日当たり5文、中難が3文、極難が1文と、貸付額の少なかった家ほど、多くの金を返済していくという仕組みでした。貸与額とはまったく逆で、借りていない無難の家が最も多い返済をすることで、彼らが住む村社会を維持させたのです。

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