薪(柴)を背負って本を読む少年の像で有名な二宮尊徳(金次郎)。江戸時代末期、現在の神奈川・小田原の農家に生まれた尊徳は、後半生を荒廃した農村の復興・再建にささげた。小田原藩士を経て幕臣に取り立てられるなど、立身出世の代表例とも言えるが、実際には既存勢力との交渉・闘いの連続だった。なぜか。それは尊徳の合理的発想に基づく再建のやり方「報徳仕法(「徳をもって徳に報いる」方法のこと)」が、当時の常識を壊すものとして周囲になかなか受け入れられなかったからだ。

 一方、報徳仕法が荒廃した農村を復興させ農産物の生産を拡大するなど、目に見える成果を上げていたのも事実。持続可能な経営の要諦を先人に学ぶ「江戸のSDGs」、今回は二宮尊徳の再建手腕と生きざまを学ぶ。研究者である立正大学非常勤講師の松尾公就氏に話を聞いた。

二宮尊徳は「至誠・勤労・分度・推譲」の報徳思想に基づいた「報徳仕法」によって、700もの農村の復興・再建を手掛けたといわれています。報徳思想は「至誠」の心を持って「勤労」した結果として、使わざるを得ないもののみを使うように節約する「分度」、分度することで残った余剰分を他の人や地域に譲る「推譲」をそれぞれ実行すべきといった、多分に道徳的な考え方を含んでいますね。

松尾公就氏(以下、松尾氏):まずお断りしておきたいのは、いろいろな逸話は、二宮尊徳本人が言ったこと、成し遂げたことを、門人たちが明治時代に入って言い伝えたものであることをしっかり理解してほしいということです。尊徳自身は1856年(安政3年)に亡くなっており、彼の人物像は明治以降に、門人らによって展開された報徳社運動や、国の教育方針などによって崇敬対象としてつくり上げられた部分が多いのです。

 例えば、「分度」「推譲」は門人たちや報徳社運動の関係者が広めた言葉で、尊徳自身は晩年に少し使った程度にすぎません。私は、必ずしも尊徳の考えを表す言葉ではないと考えています。尊徳がこうした思想に基づいて活動したというよりも、尊徳が残した実績に対して、後世の人たちが思想を付け加えたという方が正しいのではないでしょうか。もちろん、「報徳思想」という言葉を尊徳が使ったこともありません。

二宮尊徳・回村の像(神奈川県小田原市・尊徳記念館)。後半生を荒廃した農村の再興にささげた(写真:柚木祐司)

 また、土地を見分しただけ、書面・書状のやり取りをしただけ程度のところを含めても、尊徳が関わった農村は約520カ村、実際に報徳仕法が導入されたのは、その半分強です。さらに厳密に見ていくと、尊徳が直接手掛けて、再建に成功したと言えるのは、20~24歳ごろに人手に渡った自分の家・田畑を買い戻して再興した時と、36歳で家族ぐるみで移住した桜町領(現・栃木県真岡市の一部)、ほかには北関東や小田原藩などのいくつかの村くらいでしょう。

この記事は会員登録で続きをご覧いただけます

残り3365文字 / 全文4516文字

日経ビジネス電子版有料会員になると…

人気コラムなどすべてのコンテンツが読み放題

オリジナル動画が見放題、ウェビナー参加し放題

日経ビジネス最新号、9年分のバックナンバーが読み放題

この記事はシリーズ「江戸のSDGs」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。