(2015年7月22日の日経ビジネスオンラインに公開した記事を再編集しました。肩書などは掲載当時のものです)

青木昌彦・米スタンフォード大学名誉教授(写真:中島 賢一)
青木昌彦・米スタンフォード大学名誉教授(写真:中島 賢一)

 いつまでも若々しく活動的だった青木昌彦さんが永眠されたことが、まだ信じられない。今でも、涼しげな帽子をかぶりストライプのシャツを着た青木さんが「あ、伊藤くーん」とちょっとはにかんだような笑顔で現れて、握手のために手を差し出してくるような気がする。しばらくの間お会いする機会がなかった僕にとってはあまりに突然の訃報で、まだ気持ちの整理がつかない状態である。

 僕と青木先生との研究交流は、僕の留学時代およびその後の研究者としてのキャリアの大きな部分を占めているものの、彼の長い研究者としての人生や膨大な研究業績の中ではほんの小さな部分でしかない。

 僕よりも長い時代を共有した「同士」の方々、経済史、企業統治、中国経済の分野で研究交流のある方々など、追悼文を執筆するにふさわしく、人間くさい研究者「青木昌彦」像をお持ちの方々がたくさんいらっしゃるだろう。

研究のキーワードのひとつは「多様性」

 でも、青木さんの研究のキーワードのひとつは「多様性」である。スタンフォード大学の追悼記事によれば、「青木は経済制度の問題、展望、モデルを深化させる比較制度分析の創始者である。彼は経済システム、企業統治、東アジア経済を研究し、企業社会における組織構造を比較分析する企業の理論を発展させた」とある。

 ここで僕は、おそらく僕しか書かないであろう、僕が彼と共有できた個人的な時代と研究分野のことを主に書きたい。それは「企業社会における組織構造を比較分析する企業の理論」の部分であり、彼が比較制度分析に行き着く前夜のことである。米スタンフォード大学の追悼記事の中で、ケネス・アローは次のように語っている。「彼のもっとも重要な貢献は経済生活における組織構造の分析と理解にあった。特に青木は、米国経済と日本経済における経済組織の対照的な形態を研究した。彼の成果は、経済理論の深い理解に裏打ちされていた」

 僕が留学していたスタンフォード大学経営大学院博士課程には、1年目のコースワーク後の夏休みに「論文を一本執筆しなさい」という必修課題があった。留学前に勉強した『日本企業の経営比較』(加護野忠男・野中郁次郎・榊原清則・奥村昭博著、日本経済新聞出版、1983)を手がかりにして、日米企業の環境適応能力の違いを経済学の枠組みで理解できないかと考えて、正直、しょぼいモデルを構築して分析してみた。

 しかしゲーム理論が猛烈な勢いで経済学に伸ばしてきた時代である。僕のモデルでは組織の成員間に利害対立がない(よって「ゲーム」ではない)ので、定期的に報告・相談していた指導教員(デイビッド・クレプス氏、現・スタンフォード経営大学院教授)以外に話を聞いてもらえそうな人がいなかった。そのときふと思い出したのが、京都大学からスタンフォード大学経済学部に移ってこられていた青木さんだった。

 面識はなかったが、青木さんが企業理論、特に日本企業の分析に最新の経済理論や協力ゲーム理論のメスを入れ始めていたことは漠然と知っていた(注1)。1985年の夏のある日、スタンフォード大学エンシナ・ホールの研究室を訪れた。

 すべてはその日から始まった。

 当時青木さんが取り組んでいた、組織における情報構造の比較分析の研究のお話を伺い、公刊前の論文をいただいた。

次ページ 「水平的情報構造」と「垂直的情報構造」の対比