この分野での代表的研究成果として、『The Great Escape: Health, Wealth, and the Origins of Inequality』(松本裕訳『大脱出;健康、お金、格差の起源』みすず書房、2014年)が挙げられる。ディートンの著作のうち翻訳されている数少ないものであり、書評でも多く取り上げられたので、詳しくはそちらをご覧いただきたい。
同書の重要なメッセージは、所得の成長が健康改善の主たる要因だったわけではなく、制度の質の違いとそれが生み出す知識の差が重要だ、ということである。このことは、現代社会における厚生の改善を低所得途上国の最貧困層にまで届ける上で、経済成長推進以外に工夫する余地が大きいことを意味する。
途上国への開発援助はそのような工夫を考えるのにうってつけであるから、ディートンもまた、途上国への援助戦略とそれを支えるエビデンスに関し、数多く発言してきた。例えば2008年の大英学士院(British Academy)ケインズ講演では、ディートンは、政策介入のインパクトを測る際の代表的な2つの手法それぞれを辛辣に批判している。
マクロの援助効果分析では、そもそも経済状況の悪い国に対して援助が向けられる傾向がある中で、援助がその国のマクロ経済を改善したかどうかを明らかにする必要がある。そのため、援助額の変化のみに影響を与え、マクロ経済指標には直接影響を与えないような操作変数を用いた計量分析が、伝統的に使われてきた。
ディートンは、操作変数によって影響を受けるような局所的な効果を測るというそもそもの発想自体に疑問を投げかけ、経済学的メカニズムをより考慮に入れた、誘導型分析の重要性を指摘している。
ランダム化比較実験には疑問呈す
他方、ミクロの援助プロジェクトの評価で近年頻繁に用いられるようになったのが、ランダム化比較試験(randomized controlled trial: RCT)である(編集部注:ランダムに研究対象を2つに分け、一方に評価する必要のある施策を施し、もう一方には違う施策を施す実験)。
RCTに対してディートンは、「そもそも人間を対象にきちんとランダム化が達成されているのか」と疑問を呈した上で、仮に適切にランダム化されていたとしても、平均の効果が分かればよしとし、効果の分布に十分配慮せず、ミクロ経済学的構造に関心が薄いRCT研究の傾向を嘆いている。
彼はその初期の研究から一貫して、データとミクロ経済理論のバランスを強調してきた。言い換えると、データに語らせることを重視しつつも、理論なき計測・統計的検証には徹底して批判的だった点こそ、我々がディートンの経済学から学ぶべきことであるように感じられてならない。
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