A.I.D.S.とはAlmost Ideal Demand Systemの略である。「エィ・アイ・ディー・エス」と呼ぶ人もいれば、「エイズ」と呼ぶ人もいた。世界にまだエイズ(AIDS: Acquired Immune Deficiency Syndrome)が広まる前の話である。HIV/AIDSのまん延を予見していれば、ディートンは別の名前を付けていたかもしれない。

 A.I.D.S.は画期的な消費のモデルであった。なぜなら、それ以前の消費分析においては、理論分析と計量分析との間には顕著な乖離(かいり)が存在した。具体的には、理論分析では明示的な関数形を決めず、消費財価格と所得の一般的な関数として、数理解析的な分析だけをするのが主であった。一方計量分析では、政策上重要な財に関して関数形を便宜的に定め、データの当てはまりとコンピューターの能力の中で推定可能なことを重視した。

 そこでディートンは、消費者理論から導出された需要システムでありながら、柔軟な所得や価格の弾性値のパターンを許し、データから実際の消費行動を明らかにできる実証モデルとして、A.I.D.S.を提示した。

 理論的には需要パラメーターの高度に非線形な関数となる価格指数を、便宜的に近似することによって線形関数に変換し、当時の限られたコンピューターの能力でも簡単に推定できるような工夫を凝らしていたのもA.I.D.S.の特徴であった。当時の研究環境においてはまさに、「ほとんど理想的な」(almost ideal)消費需要関数のモデルだったといえよう。

 A.I.D.S.は、さまざまな国で消費需要関数の推定と政策分析に用いられ、この分野の実証分析を革新した。しかし近年は、あまり使われることがなくなった。A.I.D.S.よりもさらに柔軟に各種弾性値を推定できるシステムが理論的に考察され、コンピューター能力の向上のおかげで、高度に非線形なシステムの実証モデルをそのまま連立方程式推定することが容易になったためである。

 しかしこのことは、ディートンの貢献の意義を薄めるものではない。彼のA.I.D.S.が世に現れたが故に、その後、このような柔軟な需要システムを理論的に導出し、現実のデータに当てはめる実証研究が花開いたのである。まさにこの意味でディートンの研究は革新的かつ先駆的だった。

発展途上国の家計消費に関する理論・実証研究

 続くディートンの研究は、開発途上国の家計消費に向けられた。平均で所得が低く、かつ金融や保険など多くの市場が十分に発達していない途上国家計の消費は、先進国の家計の消費とどのように異なるのであろうか。

 ディートンによる一連の理論的な研究は、所得が農業の豊不作などの理由で大きく変動するという不確実性、信用市場が未発達であるが故に、所得の思いがけない落ち込みを借金によってしのぐことが難しいという信用制約ないし流動性制約を指摘し、これらに対応するために穀物などを貯蔵することがどのくらい有効なのかなどを明らかにした。

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