試しにデータの出所に問い合わせると、学術研究用には無料(コピー代と送料のみ)で資料を提供しているという。同社のウェブサイトにはレポート1冊30万円という定価のみが表示されており、もし定価販売のままだったらこの研究は企画倒れになっていた。大学院生は貧乏だからだ。秋になると段ボール箱2杯分、23年分の業界レポート集が送られてきた。合計1万ページに及ぶ紙の束を手に、私は狂喜した。

 3カ月かけてこれらを読破し、さらに3カ月かけて定量的なデータ部分を表計算ソフトに手入力すると、ファイルサイズは文字情報だけで10メガバイトを超えた。その頃には春が来たので、東京土産の緑茶(桜の花弁入りの「季節限定」商品)を手に、データ提供者であるシリコンバレー(米サンフランシスコ近郊)の元コンサルタント、ジェームス・ポーター氏に会いに行った。レポートだけでは伝わらない業界事情を取材するためだ。

「既存企業」と「新参企業」それぞれの脅威を疑似体験

 かつてクリステンセンの博士論文を手伝ったのも彼だったが、既に高齢で引退しており、その後しばらくして亡くなった。「滑り込みセーフ」のデータ入手だった。これで当面は、同じ資料を用いたライバル研究者の「新規参入」を心配せずに済む。あまり上品とは言えない心情だが、私は束の間、新規参入の脅威に晒され続ける世の多くの「既存企業」に同情した。

 この研究については間一髪の体験がもう1つある。当時の私は知る由もなかったが、同じ頃スタンフォード大学と米コロンビア大学の高名な研究者チームが、全く同じテーマで、全く同じデータの分析に着手していた。ところがリーダー格の教授が途中で一旦エール大学に移籍してまた元の大学に戻るなどでプロジェクトの進行が遅れている間に、私が類似の研究を学会発表したため、あと一歩で完成していた彼らの研究は、結局凍結された。後日、私がコロンビア大学で同論文をプレゼンした際に、当事者から聞いた話である。

 彼のオフィスには私が入手したのと同じ業界レポート集が並んでおり、それを見た時、私は自分の研究者生命が首の皮一枚で繋がっていた事を知った。学者業界における私の立場は「無名の新参企業」であり、実際に参入できただけでもラッキーだった。「既存企業に同情」などしている場合ではない。

 博士論文はいわば「デビュー作」にあたり、その成否は研究者キャリアに大きく影響する。と言うより、研究者を続けられるかどうかを左右する。つまり翌年から大学教授になるのか、それとも高学歴ニートになるのかは紙一重だということだ。2年間にわたって各地の大学で発表と質疑応答を行い、それを基に改稿を重ねたものが筆者の”Estimating the Innovator’s Dilemma”(「イノベーターのジレンマ」の推計)と題した論文である。

新旧製品の「共喰い」効果を実証

 その結論を一言で言うと、HDD業界において新旧製品はかなり密接に競合しており、強力な「共喰い」現象が発生する。そのような状況では、たとえ既存企業が完全に合理的で、かつ新参企業よりも高度な研究開発能力を保持していたとしても(さらには戦略的「抜け駆け」効果が強く働いていたとしても)、既存企業によるイノベーションはどこか腰の抜けたものになってしまう。

 付け加えると、もし既存企業が新部門と旧部門を完全に切り離して、それぞれ独立して経営することができたなら、新参企業にかなり近いペースでのイノベーションが可能になり(具体的には、通常の66パーセント増)、より長期間生き延びることができるというシミュレーション結果になった。結果的に、アローの「置換効果」(新旧製品の「共喰い」効果)の強力さを実証することになった。

 この論文から得るべき教訓は「生き延びるためには、一度死ぬ必要がある」という事だ。

 既存企業の悩みどころは、従来の技術と製品で成功を収めているがゆえに、新たな試みで失う物もまた多く、結局のところ新参企業ほどには新たな投資に本気になれないという点にある。

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