もし研究開発コストに1億円以上かかるのであれば、この投資は赤字ということになる。新旧の製品が「共食い」を起こしてしまうせいで、通算での投資リターンが低い。ところが新参企業にとっては状況がまるで違う。ゼロから出発する起業家にとってこの投資は、たった1億円のコストで一挙に101億円を獲得できる、割のよい案件だ。

 つまり、同じ新技術への出資にもかかわらず、既存企業は新参企業ほどの投資リターンが見込めないことになる。その理由は、既存企業が既に旧技術を用いて旧商品を売っているからだという、単純かつ根本的な点にある。別の言い方をすれば、彼らにとっては「旧技術でのもうけ」が「新技術でのもうけ」に置き換わるだけ、という帰結になってしまうのだ。

 このことから、2014年にノーベル経済学賞を受賞した仏トゥールーズ第1大学のジャン・ティロール教授は、著書『The Theory of Industrial Organization(産業組織の理論)』(The MIT Press)においてアローの理論を「置換効果」と呼んでいる。ちなみにこの教科書は1988年の出版から今に至るまで、(専門家の間では)不動のベストセラーとなっている。

 この効果は、既存企業が1社のみの「独占」なのか、大企業間の「寡占競争」なのか、それとも小粒な業者が無数にひしめき合う「完全競争」なのかによっても大きく変わってくる。ただ、「市場構造とイノベーション」については半世紀以上にわたって様々な研究が蓄積しているので、ここでは割愛する。

 アローによる分析の優れている点は、極めてシンプルな、定義上動かし難いような根本的な理由(企業が「既に存在している」こと)にのみ基づいて、彼らが新参企業ほど積極的にイノベーションに踏み切れない、と論じていることだ。しかも既存企業の経営者が合理的で、完全に正しい未来予測をしたとしてもそうなる、というところがミソである。

 このくらいシンプルなストーリーであれば現実のデータを用いて検証することも可能だし、もし理論的な予想と異なる実証結果が出た場合にも「それでは実際の経済では、他にどのようなメカニズムが作用しているのか」という新たな問いを立てることで、現象の理解を深めていくことができる。

 少なくとも、原理的には。

理論に根ざした実証研究が困難な3つの理由

 さて「現実のデータを用いて検証することが可能」と書きはしたが、それは必ずしも容易な作業ではないから、実証研究者は悩みが絶えない。理由は3つあるが、その1つは「置換効果」と全く逆の結末を示唆する有力な理論が、少なくとも2つ存在することだ。

 具体的にはまず、米カリフォルニア大学バークレー校のギルバートと英ケンブリッジ大学のニューベリーがゲーム理論に基づいて1982年に提唱した、戦略的「抜け駆け効果」がある。この理論によれば、むしろ既存企業の方が積極的にイノベーションに取り組むと予想される。なぜならライバルを出し抜くことで新規参入を封じ込めてしまえば、新技術からの利益を独占できるからだ。

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