この対談企画では、戦略コンサルタントとして活躍し『経営戦略全史』の著者として知られる三谷宏治氏、そして『孫子』や『論語』、渋沢栄一など中国古典や歴史上の人物の知恵を現代に活かす研究家の守屋淳氏が、縦横無尽に世界の歴史や企業経営に斬り込み、現代日本の課題解決につながるヒントを探り、語り合います。
前回は、航空事故の事例や過去の日本政府のIT戦略の事例をもとに、組織が失敗から学ばない、そして失敗を認められない構造的な背景について論じました。
今回は、「なぜ日本企業は失敗を繰り返すのか」をテーマに、会社と社員の歴史的な関係性も踏まえて語り合います。
プロローグ:曹操の叫び「唯才是挙」

始皇帝が生んだ秦王朝、その仕組みを取り入れて発展した漢王朝。前漢・後漢と続いたその400年の歴史がついに終わりのときを迎えていた。朝廷は腐敗し治世は乱れ、ついには農民による反乱(*1)すら起きた。諸侯が争い幼帝が殺害される戦乱の中、頭角を現したのが、曹操孟徳(そうそう もうとく)だった。後漢の名家に生まれ、武将・政治家・詩人としての才を持ち、196年には大将軍となった。蜀の劉備、呉の孫権と漢(のちに魏)の曹操が鼎立(ていりつ)する三国時代の中心は、常に曹操だった。
しかし208年、曹操は赤壁の戦いで劉備・孫権連合軍に大敗を喫していた。数十万の兵を率いて孫権らに迫ったが、疫病により多くの部下・兵士たちを失い、呉の周瑜(しゅうゆ)や蜀の諸葛孔明らの猛攻や火計を防ぎきれなかった。「二度と同じ過ちは犯さぬ」「しかし我らにはまだまだ才ある人材が足りぬ」
210年、曹操は「求賢令」を発し広く世間に人材を求めた。「唯才是挙(ただ才のみ、これを挙げよ)」と。それまでの人材登用は世に知られた人物を曹操が見極めるか、従来の推挙システムによるものが中心だった。前者には人数の限界があり、後者には儒教的価値観の壁があった。
当時はまだ試験による科挙制度はなく、中央に登用されるのは地方の有力者に推薦された者たちだった。強い儒教社会において、その評価基準は縁故と清廉さ。新しい服を着ていたり、良い車に乗っていたり、は不清(清廉でない)とされた。結局、集まるのは「清廉な振りをするのがうまい、古着を着た縁故頼りの才能のない者」ばかり。これを打破せねば、真に能力のある人材を発掘・登用できなければ、魏の未来はない!
少壮気鋭の若きリーダーだった曹操ももう55才。彼は一抹の焦りを感じていた。
Powered by リゾーム?