この対談企画では、戦略コンサルタントとして活躍し『経営戦略全史』の著者として知られる三谷宏治氏、そして『孫子』や『論語』、渋沢栄一など中国古典や歴史上の人物の知恵を現代に活かす研究家の守屋淳氏が、縦横無尽に世界の歴史や企業経営に斬り込み、現代日本の課題解決につながるヒントを探り、語り合います。

 前回前々回は、古代中国やモンゴル帝国、日露戦争や米ソ冷戦の歴史的事例を踏まえて、「戦争」がIT(情報技術)の発展を促してきたことを論じました。

 今回と次回は、「ビジネス(民需)」が如何に近代のITイノベーションを牽引してきたかの考察です。今回は電信・無線・電話・ラジオの話から。

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ORIENT:原義は「口ーマから東の方向」。時代によりそれはメソポタミアやエジプト、 トルコなど中近東、東ヨーロッバ、東南アジアのことをさした。転じて「方向付ける」 「重視する」 「新しい状況に合わせる」の意味に。

プロローグ:マルコーニの挑戦

(写真=Print Collector/Getty Images)
(写真=Print Collector/Getty Images)

 天才マックスウェルが1864年に「光(可視光線)も電波も電磁波の一種であり、一つの式で書き表せる」と看破してから23年後、ようやくハインリヒ・ヘルツがその存在を実験で証明した。彼はその実用的価値を見いだせずにその7年後、36才で早世したが、彼への追悼論文がイタリア・ボローニャの若者の興味を惹いた。

 20歳のグリエルモ・マルコーニは直感した。「これは通信に使える!」。恩師の助けを借りながら彼は無線伝送の実験を繰り返し、これに成功した。徐々に送信距離を伸ばし、翌年秋にはついに2.4kmまで伸びた。早速イタリア政府に売り込んだが、その重要性は理解されず、見向きもされなかった。仕方がないので母親のツテを頼って英国に渡り、今度は英国政府に売り込んだ。郵政庁が援助を決め、無事、特許もとれた。マルコーニは22歳。ヘルツの追悼論文を読んでから、たった2年しか経っていなかった。

 当時、電波は光同様直進するものと信じられていた。だから遠くには届かない、と。マルコーニはそんな常識には耳を貸さず、ひたすら実験を繰り返した。結果として電波は大西洋を越えて3400km先に届き(1901年)、海上輸送を安全にし、移動体からの生中継も実現した。

 マルコーニの貢献は1909年にはノーベル物理学賞となって、彼の人生を照らした。大学には行かなかった(*1)。その道の専門家たちにも徹底的に否定された。新しい技術にイタリア政府も冷たかった。それでも事実に優るものはない。そして優れた技術は、必ず大きな用途に結びつくのだ。そのときマルコーニはまだ35歳、彼はその後も、無線通信・放送の実用化に大きな役割を果たし続けた。

 1937年、63歳で死んだ彼をイタリア政府は国葬で送り、英連邦(*2)は世界中の官設無線局を2分間沈黙させることで弔意を示した。

*1 裕福な家庭に生まれたマルコーニは、優れた家庭教師らから直接教育を受けた。
*2 当時の英連邦は、現在の英国、アイルランド、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、パキスタン、エジプト、ナイジェリア他。  

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