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ORIENT:原義は「口ーマから東の方向」。時代によりそれはメソポタミアやエジプト、 トルコなど中近東、東ヨーロッバ、東南アジアのことをさした。転じて「方向付ける」 「重視する」 「新しい状況に合わせる」の意味に。
プロローグ:マルコーニの挑戦

天才マックスウェルが1864年に「光(可視光線)も電波も電磁波の一種であり、一つの式で書き表せる」と看破してから23年後、ようやくハインリヒ・ヘルツがその存在を実験で証明した。彼はその実用的価値を見いだせずにその7年後、36才で早世したが、彼への追悼論文がイタリア・ボローニャの若者の興味を惹いた。
20歳のグリエルモ・マルコーニは直感した。「これは通信に使える!」。恩師の助けを借りながら彼は無線伝送の実験を繰り返し、これに成功した。徐々に送信距離を伸ばし、翌年秋にはついに2.4kmまで伸びた。早速イタリア政府に売り込んだが、その重要性は理解されず、見向きもされなかった。仕方がないので母親のツテを頼って英国に渡り、今度は英国政府に売り込んだ。郵政庁が援助を決め、無事、特許もとれた。マルコーニは22歳。ヘルツの追悼論文を読んでから、たった2年しか経っていなかった。
当時、電波は光同様直進するものと信じられていた。だから遠くには届かない、と。マルコーニはそんな常識には耳を貸さず、ひたすら実験を繰り返した。結果として電波は大西洋を越えて3400km先に届き(1901年)、海上輸送を安全にし、移動体からの生中継も実現した。
マルコーニの貢献は1909年にはノーベル物理学賞となって、彼の人生を照らした。大学には行かなかった(*1)。その道の専門家たちにも徹底的に否定された。新しい技術にイタリア政府も冷たかった。それでも事実に優るものはない。そして優れた技術は、必ず大きな用途に結びつくのだ。そのときマルコーニはまだ35歳、彼はその後も、無線通信・放送の実用化に大きな役割を果たし続けた。
1937年、63歳で死んだ彼をイタリア政府は国葬で送り、英連邦(*2)は世界中の官設無線局を2分間沈黙させることで弔意を示した。
*2 当時の英連邦は、現在の英国、アイルランド、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、パキスタン、エジプト、ナイジェリア他。
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