一橋ビジネススクールの楠木建教授と社史研究家の杉浦泰氏による人気連載「逆・タイムマシン経営論」。経営判断を惑わす様々な罠(わな=トラップ)を回避するすべを、過去の経営判断や当時のメディアの論調などを分析することで学ぶ。第1章では、「AI(人工知能)」や「サブスクリプション(サブスク)」といったバズワードに象徴される「飛び道具トラップ」、第2章では、新しい技術やビジネスが登場するたびに「激動期が訪れた!」という錯覚に陥る「激動期トラップ」を分析した。
第3章のテーマは「遠近歪曲(わいきょく)トラップ」。なぜ、「遠いものほど良く見え、近いものほど粗が目立つ」のか。私たちは、例えばイノベーションでは米国のシリコンバレー、社会モデルではスウェーデンなどの北欧諸国を「素晴らしい」と礼賛しがちだ。こうした地理的に遠い諸外国など空間軸だけではなく、時間軸でも「あの頃は良かった」と遠い過去のことを美化してしまうのは世の常だ。
こうした「遠近歪曲トラップ」にはまらないためにはどうしたらよいのか。第5回は、いよいよ「逆・タイムマシン経営論」の最終回。そもそもどうして、私たちは「日本はダメ」「日本企業はダメ」という発想に陥りがちなのか。そして、そうした罠を回避するにはどうしたらよいのかを考察する。

この章では遠近歪曲トラップという同時性の罠(わな)について考察してきました。時間的にも空間的にも遠いものほど良く見え、「今」「ここ」の事象ほど粗が目立つ。このバイアスが往々にして偏った現状認識や間違った判断をもたらします。
遠近歪曲トラップが作動すると、何を見ても聞いても「今の日本はとにかくダメ」という結論になりがちです。ちょっと考えてみれば当たり前の話ですが、しょせん人の世の中、全てにおいて全面的に優れた国やシステムなどというものは存在しません。日本にも米国にも中国にもドイツにも、それぞれ良いところと悪いところが混在しています。既に見たように米国のシリコンバレーという地域にも、良いところと悪いところがあります。
「今の日本はとにかくダメ」?
「今の日本はとにかくダメ」という議論で「日本はダメ派」がよく持ち出してくるファクトに、人口1人当たりGDP(国内総生産)における日本の地位低下があります。かつては世界ランキングの上位にいた日本がずるずると順位を下げ、他の先進国の後じんを拝している。もはや日本は発展途上国だ――という主張です。
そもそも、「1人当たりGDP」という大ざっぱな指標がその国の経済力や豊かさを正確に捉えているかどうかには議論の余地がありますが、ここでは国際比較可能な簡便な指標という程度の意味で、この四半世紀の1人当たりGDPの国別ランキングとその推移を振り返っておきましょう。表は1990年から5年おきに2018年(入手可能な最新年)までの1人当たりGDPのトップ10をまとめたものです。GDPの4大大国(米国、中国、日本、ドイツ)については、別枠でそれぞれ順位の推移を示してあります。
1990 | 1995 | 2000 | 2005 | 2010 | 2015 | 2018 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | スイス | ルクセンブルク | ルクセンブルク | ルクセンブルク | ルクセンブルク | ルクセンブルク | ルクセンブルク |
2 | ルクセンブルク | スイス | 日本 | ノルウェー | ノルウェー | スイス | スイス |
3 | スウェーデン | 日本 | ノルウェー | アイスランド | スイス | ノルウェー | マカオ |
4 | フィンランド | デンマーク | スイス | スイス | カタール | マカオ | ノルウェー |
5 | ノルウェー | ノルウェー | 米国 | カタール | サンマリノ | カタール | アイルランド |
6 | デンマーク | ドイツ | アラブ首長国連邦 | アイルランド | デンマーク | アイルランド | アイスランド |
7 | アラブ首長国連邦 | オーストリア | アイスランド | デンマーク | オーストラリア | 米国 | カタール |
8 | アイスランド | スウェーデン | デンマーク | 米国 | スウェーデン | シンガポール | シンガポール |
9 | 日本 | オランダ | カタール | アラブ首長国連邦 | オランダ | デンマーク | 米国 |
10 | 米国 | 米国 | スウェーデン | スウェーデン | マカオ | アイスランド | デンマーク |
表を見ればすぐ分かるのですが、分母が人口という指標の性質からして、このランキングは人口の少ない小国に有利となります。この20年は「ルクセンブルク最強」という時代が続いています。ルクセンブルク以外にも、スイス、マカオ、ノルウェー、カタール、アイルランドといった小国がトップテンの常連です。
ちなみに、このデータは国際通貨基金(IMF)の統計によるものですが、さらに多くの国や地域を含んでいる国連統計を使うと、この期間のトップは常にモナコかリヒテンシュタインのどちらかです(ルクセンブルクは大体3位か4位)。他にもバミューダ、ケイマン諸島、英領バージン諸島といった「国」とは呼べないような地域が上位に顔を並べています。国連統計では、大国の米国ですら表にある7時点で1回も上位10カ国には入ってきません(ただし日本は1995年と2000年に、それぞれ6位と8位でトップ10入りしている)。
話をIMF統計に基づいたランキングに戻しますと、1990年から2000年までの10年間、日本は人口1億人以上の大国でありながらトップ10に顔を出してくるまれな国でした。その順位は世界一の経済大国である米国よりも上で、2000年にはなんと絶対王者のルクセンブルクに次いで2位につけています。ところが、2005年にはトップテンから陥落し(15位)、2010年には18位、その後さらに順位を下げて、2015年と2018年は26位です。
多くの年でランキング入りしている米国はもちろん、20位前後と安定的に推移しているドイツと比べて、いかにも日本の衰退が目立ちます。指標の性質からして、このランキングは為替レートにあからさまな影響を受けますが(1990年代のように円高になると日本は上位にくる)、日本の生産力そのものが相対的に落ちているのは確かです。
ただし、です。この簡単なデータを見るだけでもいくつかの面白い事実が指摘できます。第1に、停滞する日本が多くの課題を抱えているのは確かですが、だからといってランキングの上位にいる国や地域に問題がないかといえば、全くそんなことはありません。経済的な側面に限定しても、それぞれに深刻な課題を抱えています。
例えば、カタール。今世紀に入ってからはランキングの常連ですが、天然ガスに極度に依存した一本足打法の産業構造です。資源産出国として未曽有の経済的豊かさを享受している一方で、政治的な緊張もあって、今後の国のかじ取りはいよいよ難しい時期に来ています。ここ数年間、著者の楠木はカタールの公的部門や企業の人々と年に1回会って議論する機会を得ています。彼らの生の声を聞いていると、今後のカタールの難しさは日本のそれをしのぐように思えます。
第2に、中国の「豊かさ」です。中国は日本を抜いて世界第2の経済大国となり、そのうち米国を抜き世界一になることはほとんど確実です。「今の日本はとにかくダメ」という人は中国の台頭を強調し、それと比べて日本は取り残されている、もはや未来がない、と嘆きます。中国は1人当たりGDPでも1990年以来大きく順位を上げています。しかし、それでも72位です。
これがどのような位置づけかというと、赤道ギニア(70位)やメキシコ(71位)よりもまだ下なのです。それもこれも中国が人口規模の点で超大国だからです。言い換えれば、あれだけの人口を擁するからこそ世界第2の経済大国となり得たわけです。人口1人当たりで見れば中国の豊かさは「世界第2の経済大国」のイメージとは大きなギャップがあります。
しかも、このところの香港統治問題に表れているように、一党独裁制と資本主義的経済活動との間には根源的な矛盾があります。経済成長を続けるほど、中国が抱える無理難題はますます大きくなるわけで、中国ほど統治が難しい国はないといってもよいでしょう。要するに、世界のどこを見ても、ごく一部の小国を別にすれば、「うまくいっている国」などどこにもないということです。
第3に、これが最も声を大にして言いたいことなのですが、人口1人当たりGDPで日本が上位にあった1990年代後半、当の日本における同時代の空気はどうだったでしょうか。この指標の性質からして、日本のような人口1億人以上の大国が2位や3位になるということはほとんど奇跡的な「成果」です。
ところが、です。人々が当時何を言っていたのかを思い返してみてください。今と全く変わらず「日本は最悪だ」という議論に明け暮れていました。バブル崩壊にもかかわらず不良債権の処理は進まない。日本的経営は崩壊し(20年後の今も順調に崩壊し続けているのは既に見た通り)、抜本的な改革が求められているにもかかわらず企業は変われず、イノベーションも出てこない――。「ついに1人当たりGDPでもルクセンブルクに次いで世界第2位になった!」と国民総出でちょうちん行列に繰り出してもよさそうなのに、「今の日本はとにかくダメ!」と言っていたのです。
1人当たりGDPが2位でもダメ、26位でもダメ。「いったいどうすりゃいいんだよ!」と思わず言いたくなりますが、これこそ遠近歪曲トラップの最たるものです。
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