働き方改革を推進してきた味の素の西井孝明社長(右)と最低賃金引き上げなどについて提言を続ける小西美術工芸社のデービッド・アトキンソン社長(左)が、生産性をテーマに公開討論をした(2019年11月18日開催の日経ビジネス Raise LIVE、写真:北山宏一、以下同)
大竹剛(日経ビジネス編集):きょうはお忙しい中、お集まりいただきましてありがとうございます。今日は「日経ビジネス Raise LIVE」として、私たちが日々取材している方と、読者の皆さんが直接対話することを通じて、記事からでは味わえない、様々なヒントをつかんでいただきたいと思います。
このイベントでは、生産性を向上するにはどのような手を打ったらいいのかをテーマに、味の素の西井孝明社長と、小西美術工芸社のデービッド・アトキンソン社長に対談していただきます。『日経ビジネス』は「目覚めるニッポン」と題して、日本が再成長するための「この一手」を経営者や専門家の方々にインタビューしてきました。今日はそのスピンアウト企画で、インタビューで生産性をテーマにお話しいただいた西井さんとアトキンソンさんに対談してもらい、思う存分語り合っていただこうと思っております。
まず、私から議論のきっかけとしてアトキンソンさんにお聞きします。アトキンソンさんは生産性、特になぜ賃金が上がらないのかという点について、積極的に意見を発信なさっていますが、改めてなぜ、賃金が上がらないのか、原因はどこにあるとお考えですか。
非正規雇用の拡大が日本の生産性を引き下げた
デービッド・アトキンソン 小西美術工芸社社長
1965年、英国生まれ。1990年来日。ゴールドマン・サックス証券金融調査室長として日本の不良債権の実態を暴くリポートを発表。2007年退社し2009年に国宝・重要文化財の補修を手掛ける小西美術工芸社に入社、2011年社長に就任。『デービッド・アトキンソン新・観光立国論』『日本人の勝算:人口減少×高齢化×資本主義』(ともに東洋経済新報社)など著書多数
デービッド・アトキンソン氏(小西美術工芸社社長、以下、アトキンソン氏):皆さんこんにちは。賃金の問題はそう簡単には答えは出ません。いろいろな構造的な問題があるのですが、一番大きな要因はやはり、経済政策が大きな失敗をしていることです。特に非正規雇用の拡大が非常に大きな問題です。非正規雇用が増えることで全体の賃金水準が下がっていくということは、日本だけではなくて欧州でも確認されていて、悪い規制緩和の一例になっています。
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これが生産性とかなり深く関わっています。生産性は皆さんご承知のように、人的資本、物的資本、全要素生産性の3つに分けることができます。この中で、生産性向上に一番大きな役割を果たすのが、全要素生産性のところです。
人的資本とは、何人が何時間働くかで、物的資本はどのぐらいの設備投資をするかです。例えば1995年から2015年の20年間で、日本以外の主要7カ国(G7)の国々では、人的資本が約0.5%ずつ毎年上がっています。それに対して日本は0.4%です。そんなに大きな違いがあるわけではない。一方、物的資本は日本以外のG7諸国は0.9%であるのに対して日本は0.8%。これも大きな差があるわけではない。
しかし、全要素生産性では圧倒的に違いが出ている。
アトキンソン氏:例えば、英国は1.7%、米国は0.8%上がっているのですが、日本はわずか0.2%。
人的資本は中卒であっても大学院卒であっても同じ1人として換算されますが、その生産性の違いが把握されるのは全要素生産性です。つまり、ここから推測されるのは、日本は人材の中身が良くなっていないということです。非正規雇用が増えたことで、正社員向けの研修が減ってスキルアップしていかなかったり、人材へのコミットメントが下がったり、そういうことが巡り巡って全要素生産性が伸びない要因になっているのが問題なのです。特に高齢化しているのにスキルアップをしないと、人材の質はどんどん劣化しますので、悪影響が膨らみます。
日本の識者は、世界=米国、経済学=米国と考えがちで、本当の世界を見てないのではないでしょうか。私がいろいろなところで、例えば「日本は輸出を増やしていった方がいい」と発言すると、「いや、米国だって輸出比率は低いじゃないか。だから海外でも低い」と反論されます。しかし、米国は低いかもしれないが、それ以外の国と一緒にしないでくれる?と言いたい。米国は特殊な国だから、米国をベースに考えていくのはかなり問題です。
米国は言うまでもなく、先進国の中でも移民の人口増加比率がものすごく高い。経済成長のだいたい3分の2から4分の3ぐらいは人口増加によるものです。米国の自由資本主義はすごい、ベンチャーがすごい、シリコンバレーがすごい……。これらは全て事実ですが、だからといってそれだけをまねても米国のように成長できるわけではありません。
人口が減少している日本と、移民で人口増加を続けている米国は基礎的な条件がまったく異なるのに、「米国はすごい。規制緩和のおかげです。だから日本も規制緩和をする」という理屈は意味が分からない。雇用に関する規制緩和はその典型で、そんなことをやっても賃金が上がるはずはないんですよ。だって、非正規雇用の拡大といった、賃金を下げる政策しかやっていないわけですから。
大竹:ありがとうございます。西井さんもうなずきながら聞いていましたね。そもそも今回の対談が実現したのは、西井さんがアトキンソンさんの大ファンだからです。西井さんに取材したとき、「生産性については全部、アトキンソンさんが話している」と言うので、それなら対談で議論をもっと深めましょうということになったわけです。
西井さんは経営者の立場で今のアトキンソンさんの話を聞いて、どう思いましたか。
「高品質低価格が日本を滅ぼす」
西井孝明(にしい・たかあき) 味の素社長
1959年生まれ。78年奈良県立畝傍高等学校を卒業後、同志社大学文学部に入学。82年、同志社大学を卒業し、味の素に入社。営業やマーケティング、人事などを担当。2004年に味の素冷凍食品に出向し、取締役に就任。当時不振事業だった家庭用冷凍食品の業績を改善。09年には本社人事部長を務め、11年に執行役員に就任する。13年にはブラジル味の素社長に就任。15年に創業家を除いて、歴代最年少となる55歳で味の素社長に就任
西井孝明・味の素社長(以下、西井氏):はい。アトキンソンさんの大ファンなのですが、きっかけはある流通業の方がアトキンソンさんの本を読んで、「高品質低価格というのはあり得ない、高品質低価格が日本が滅ぼす」という趣旨の発言をしていて、それをきっかけにアトキンソンさんの本を読み始めました。書かれていることは、あまりにも正論というか、緻密な分析に基づいたロジカルな主張なので、とてもはまってしまったというわけです。
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「なぜ賃金が上がらないのか」という問題について、私はアトキンソンさんのようにマクロな視点ではお話しできません。しかし、私は昭和の時代、1980年代の後半ぐらいまでは、日本ではインフレを価格に転嫁したり、最低賃金を上げていったりするトレンドはあったと思います。しかし、残念ながら平成の時代、90年代に入ってバブルが崩壊したころから、ものすごく価格を上げにくくなりました。
冷凍食品の場合、1988年に商品の価格を値上げしてから、2008年に再び値上げをするまで、20年以上、価格を据え置いています。2008年の値上げは私が主導したので明解に覚えています。
私たち味の素が20年間上げていないということは、日本のほとんどの食品メーカーはその期間、上げていません。具体的に味の素の商品でいうと、例えば冷凍ギョーザの1パックの値段は、40年前に発売したときは250円でした。私が値上げを決めた2008年は、お客様に買っていただく小売りでの売価がだいたい138円でした。発売してからの中身を改良してきているのに。
世の中全体がずっとこういう状態があって、結果として我々も価格を上げることができなかった。価格を上げられなければ給料に反映することができません。その結果、先ほどのお話の通り、工場の現場などでいわゆる「非正規」と呼ばれる雇用形態の方々の比率がどんどん高まっていったのだと思います。
従って、何がデフレスパイラルのきっかけかは分かりませんが、アトキンソンさんがいろいろなところでお話しになっているように、やはり最低賃金の引き上げはとても重要な社会施策だと思います。日本以外の多くの国では、最低賃金を引き上げているんですよね。
私が以前いたブラジルでは当時、だいたい最低賃金が6~6.5%ほど毎年上がっていました。これは国が決めますから、我々民間企業は最低賃金の上昇を前提にインフレ率を考慮して、商品の値段を9%上げるといったことを毎年やるわけです。それが社会に還元されていて、数パーセントの経済成長率につながっていくということ、ブラジルでは体験しました。ですので、やはりこの国の賃金が上がらない仕組みが、諸悪の根源であるということを本当に実感しています。
この国の低価格信仰はおかしい
大竹:要するに、国全体が「デフレマインド」から抜け出せないということなのだと思います。アトキンソンさんは以前のインタビューで、「価格を上げるのはマクロの話じゃなくて、経営者が決断する話だ」とおっしゃっていました。日本企業の在り方について、どのように思いますか。
アトキンソン氏:いくつか気になるところはあるのですが、一番はやはり、分析をあまりしないということですね。つまり、エビデンス(証拠)に基づかない議論が多いということです。
例えば、なぜ価格を上げられないのですかと聞くと、多くの経営者が「いや、上げられないでしょう」とか、「それは国民が認めないでしょう」とか言われるのです。「1億2700万人、全員に聞いたんですか」と聞き返しますが、それでも「やはり無理だ」と言うわけです。
でも、そのエビデンスはなんですか。私が小西美術工芸社に入ったときの話です。もう10年ほど前になりますが、最初に何をしたかというと、価格を上げたんです。そうすると、業界団体の方々から「なに考えているんだ」といった反応がありました。「神社仏閣でも絶対認められない」「絶対に上げられない」と言われたのです。
しかし、顧客に聞いてもいないのに「できない」と決めつけるのはいかがなものかと思いましたので、得意先を回って、「価格を上げないとこの先、職人の継承をいつまで続けられるか分かりません」と事情をしっかり説明しました。小西美術工芸社は当時、社員の高齢化が進んでいて、「今回の工事はできるかもしれませんが、このままだと確実に次に工事をする必要があるときは潰れています。それでもいいんですか」と聞きました。
どのくらい引き上げたかというと、1割です。「1割ぐらい引き上げさせてください」とお願いすると、「ああ、そうですか。もっと上げた方がいいんじゃないのと?」と逆にさらなる値上げを勧められたほどです。それで結局、ほかの会社も値上げしていって、最終的にはなんの反発もありませんでした。
もう1つは、やはりこの国には低価格信仰が強いと感じます。「安くしていることはいいこと」「安いことは社会貢献」「安くしていることは良心的な人の証明」といった印象です。ただ経済学の視点で見ると、社会保障の負担がどんどん大きくなっていて、ほかの先進国と大きく変わらないインフラを持っている日本が、人口も増加しないのに「安いことはいいこと」と信じ続けていると、どこかで大きなツケを払うことになります。
本来は100円を支払ってもらわなければいけないのに、「70円にしています」といって30円不足している。だけど、社会インフラは100円を前提にしてつくっているので、不足した30円分をどこかで取り戻さなければなりません。結局、消費税や所得税など、どこかにゆがみが発生してしまうんです。
先ほど西井さんがおっしゃったように、1990年から今まで物価が上がらず、賃金を上げてきていない結果が、1200兆円の国の借金なんです。経済学者や経済アナリストは、物価を引き上げてこなかったことが1200兆円の借金につながっていると、なぜもっと結び付けてないのか疑問に思います。
低価格信仰がある経営者は、自己満足のためにやっているのです。自分の行動の結果が、回り回って経済全体にどういう影響を与えているのかを考えていない。最低賃金に反対する人は、それが貧困につながっていっているという意識がほとんどない。
高品質低価格というのは罪です。だけれども、多くの業界の人たちは、こんなに素晴らしいものをこんなに安く提供していることを自慢します。私は神様でしょうと。そういう人があまりにも多過ぎると思います。
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