インフラは30年にしてならず
「水道」「電気」「ガス」のように、過去100年の間に人々の生活様式を大きく変えた変化はいずれも生活のインフラでした。「ローマは1日にしてならず」と言いますが、近過去の歴史をひもとけば「インフラは30年にしてならず」です。
自動車にしても、先行したのは車そのものの発明や開発で、インフラの整備には多大な時間を要しています。人々が自動車で当たり前のように移動できるようになるまで、どのような過程が必要だったのかを振り返っておきましょう。
自動車の技術変化という文脈でよく引用されるのが、1908年の「T型フォード」の登場前と登場後で、街中の移動手段がどのように変化したのかという写真です。場所はニューヨーク5番街です。上の写真が、T型フォードという世界初の量産型自動車が普及する前の1900年のものです。馬車が人々の移動手段の多くを占めていました。

ところが、1908年のT型フォードの発売を機に、ニューヨーク五番街が自動車であふれるようになります。次の写真は同じニューヨーク5番街の1910年の写真です。「激動期」の物的証拠というわけですが、こうした議論には落とし穴があります。

ニューヨークなどの都心部で乗用車が急速に普及した理由は、既に馬車での移動を前提とした「舗装道路」というインフラが整っていたことにあります。自動車が普及する前の「馬車の時代」にすでに舗装道路が整備されており、既存のインフラがそのまま機能したからこそ、ニューヨークでは短期間に乗用車が普及しました。
この事情は、日本でもほとんど同じです。日本国内で乗用車を見かけるようになったひとつの転機は1923年の関東大震災でした。震災によって鉄道や路面電車などの都市交通がまひしたこともあり、縦横無尽に走ることができる自動車は貴重な交通手段として注目を浴びました。1913年時点の東京の自動車の数は約350台に過ぎませんでしたが、震災直後の1924年には約1万台と急速に増えています。当時の時事新報も「日本の自動車界は短日月の間に相当の発達をした」(1924年5月10日付「東京の自動車一万台に達す」)と報道しており、その様変わりは注目を集めました。
しかし、これは東京に限った現象でした。ニューヨークと同様に、1920年代の東京では車の普及に先行して道路網が整備されていました。東京の道路が本格的に整備された理由は、自動車社会の到来を誰かが予言していたからではありません。明治時代を通じて路面電車を東京都心部に開通させる計画があったからです。当時の都市計画の中心は「運河開削」と「路面電車」の2本柱をベースにしていました。
新しい「路面電車」という交通機関を普及させるためには、道路の幅を十分に確保する必要がありました。そして関東大震災の復興を機に主要幹線道路の舗装が進み、結果として東京都内に複数車線の舗装道路が徐々に整備されていったのです。そもそもは路面電車交通のための道路の幅が、突如として出現した自動車にたまたま適合し、舗装をきっかけに急速に自動車が普及したという成り行きです。
「舗装道路」という自動車普及のためのインフラひとつをとっても、日本に本格的なモータリゼーションが到来するまでにそれから40年という長い時間が必要だったということが分かります。日本全国で舗装道路が整備されるには長い時間が必要でした。東京都心部でも、さらに増加する自動車が円滑に通行するためには、路面電車を前提とした道路以外にも多大な舗装道路の建設が必要となりました。
東京圏で自動車社会を前提とした道路インフラが本格的に整備されたのは、1964年の東京オリンピックの前後でした。1950年代から1960年代にかけて、東京都は道路の大改造を実施しました。それまで人々の生活の足になってきた路面電車を廃止し、車線数を増やした主要幹線道路の整備を進めました。一方で、使用されなくなった都心部の運河や堀というスペースを自動車専用道として活用することで、何とか東京都心部でも大量の自動車をさばけるインフラを構築したのです。
それと並行して、「路面電車」に代わる公共交通手段としての地下鉄が続々と開通し、庶民の通勤の足が地上から地下へと変化しました。それまでの地下鉄は銀座線だけでしたが、1950年代から1970年代にかけて、丸ノ内線、日比谷線、半蔵門線、千代田線、東西線、有楽町線、都営浅草線、都営新宿線などの主要路線が次々と建設されました。この大改造の結果、東京では大量の自動車が地上で走行しても、日常生活に支障をきたさない都市構造を作り上げることができたのです。
歴史を振り返ると、1923年の関東大震災で「自動車」が注目を集めてから、半世紀以上という長い年月をかけて「自動車社会」が日本に定着したことがわかります。1966年にトヨタ自動車が発売した「カローラ」が実用的な大衆車として注目を集めましたが、カローラがロングセラーになった理由は、カローラを走らせるための舗装道路が整備され、それに合わせた都市構造が成立していたからです。逆に言えば、「モータリゼーション」を起こすカローラの出現は、インフラの整備を待たなければなりませんでした。
1970年代に田中角栄(当時首相)が「日本列島改造論」を打ち出し、自動車などの道路インフラを東京だけではなく地方にも広げる方針を打ち出して大きな反響を呼びました。地方では1970年代以降に舗装道路が本格的に整備され始め、ここにして、ようやく日本列島は本格的な自動車社会の恩恵を受けられるようになりました。
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