終戦後のビジョンをつくった上で参戦したルーズベルト

 1941年6月、独ソ戦が始まります。ヒトラーは「イングランドはもう向こうから攻めてくる力はないけれど飛行機だけでは倒せない。宿敵ソ連を先に倒してしまえば、もうそれで勝負はつくだろう」とソ連に攻めていくわけです。

 このときに動員した車両の2~3割はフランス軍から分捕ったものです。ドイツは完全な準備をして第2次世界大戦に入ったように多くの人が錯覚していますが、実は徴兵を始めたのが1935年ですから、準備する時間はそれほどありませんでした。それでもなぜ、ドイツが有能だったかというと、優秀な将校がたくさんいたからです。それは実はソ連軍をコーチする中で養われました。

 現在の分析では独ソ戦が始まって、8月にスモレンスクという場所でドイツ軍は足止めを食います。ソ連軍が徹底的に抵抗したからで、ここでドイツの虎の子の部隊の戦車が大幅に失われます。実は独ソ戦の帰趨はスターリングラード(現ヴォルゴラード)ではなくて、今ではこのスモレンスクの戦いだったといわれています。

 11月、アメリカは武器貸与法をソ連にも適用することに決めます。ソ連の車両のほとんどはアメリカ製のジープです。アメリカの軍部の高官がモスクワを訪れて、「ドイツは絶対にこの戦争には勝てないだろう」というリポートを本国に送っています。つまり日本にもう少し外交能力があったら、アメリカが武器貸与法をソ連にも適用した段階でこの世界大戦の帰趨は分かっていたはずです。しかし、外交能力がなく孤立していますから情報が入ってこなくて、その後、太平洋戦争に突入していきます。

 ルーズベルトとチャーチルは8月に大西洋憲章に調印していますが、その前にフランスがドイツに占領されたので、日本は火事場泥棒的にフランスの植民地は「日本が管理してあげますよ」という感じでインドシナに進駐します。これも「対華21カ条」と同じようなやり方ですね。

 これにアメリカが怒って石油を全面禁輸にして日本は干上がるわけです。石油の備蓄は二百数十日分しかありませんから、アメリカから石油が入ってこなくなったら一刻一刻と減っていく。「時がたてばたつほどしんどくなるから、石油の備蓄が1日でも多いときに戦争を仕掛けないとあかん」という倒錯した議論になっていくわけです。

 インドシナから軍隊を引き揚げるか、あるいは引き揚げたふりをしてアメリカの対日石油の全面禁輸を解いてもらったらいいのですが、そのようなことすら考えられないようになっていました。外交能力がものすごく落ちているわけです。

 ルーズベルトは領土不拡大や民族自決、貿易の自由と拡大といった全8カ条からなる大西洋憲章で、既に戦後のビジョンを描いています。ウィルソンの失敗を反省して、ルーズベルトは「今回の第2次世界大戦は金融恐慌から起こったのだからお金の流れをコントロールしなくてはならない。だから国際通貨基金(IMF)と世界銀行をつくる。その次に国際連合をつくる。世界は4人の警察官、自分とチャーチルと蒋介石とスターリンで仕切る」という原案を作っています。

 ただ、チャーチルはスターリンと蒋介石を信頼していなかったので、「4人だったら2対2になりますよ。物事は決まりません」とルーズベルトを説得して、亡命していたフランスのド・ゴールを加えるのです。チャーチル自身はド・ゴールのことが大嫌いだったのですが、ほかに代わりがいませんでした。チャーチルは、やはり先が見えた人で、この5カ国が国連の常任理事国になります。

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