ヒトラーの「第3帝国」と泥沼に入る日中戦争

 アメリカではフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任してニューディール政策を始め、不況にピリオドを打ちます。1933年1月、ドイツではナチスが第1党になりましたが、ヴァイマール共和国(1919年7月のヴァイマール憲法制定から、1933年のヒトラー政権の成立までのドイツ共和国)の重鎮は、ヒトラーを操れると思っていました。最初のヒトラー内閣は、ナチスからの入閣は大臣二十数人のうちわずか3人でした。

 ところが、ヒットラーは国会への放火事件を「これは共産党の仕業だ」と広めて、同年3月に非常大権法を強引に成立させて独裁体制を築いてしまいます。そもそも、この放火事件にはヒトラーが深く関与したとされています。ヴァイマール体制では大統領と首相という2つのポストがありました。タンネンベルクの戦いでロシア軍を破ったヒンデンブルクという英雄が大統領に就いていたのですが、1934年8月、ヒンデンブルク大統領が死ぬとヒトラーは大統領を兼務し、非常大権法の下で総統と呼ばれるようになります。これを「第3帝国」と呼んでいるのは、神聖ローマ帝国、ビスマルクのつくったプロイセンの帝国、そして3番目の帝国という意味です。

 ナチス・ドイツの徴兵制は1935年3月から始まります。ヒトラーが政権を取った翌年です。ドイツも国際連盟を脱退します。1936年にはスペインで人民戦線、共産党が入った政権ができます。日本では二・二六事件が起こって軍部の独裁が進んでいきます。

 ヒトラーは、ロカルノ条約を破棄して、非武装地域であったラインラントにドイツ軍を進駐させます。徴兵制を始めてからわずか1年後ですからドイツ軍はまだ弱い。このときに英仏が毅然とした態度を取っていたらちょっとは事情が変わったかもしれませんが、英仏の胸には「30億金マルクの賠償を1320億金マルクと吹っ掛けたからこんなことになったんだな」という反省も一部あったので見逃すわけです。

 日本では広田弘毅という総理大臣が、軍部大臣現役武官制を復活させます。これは、日本軍をつくった山縣有朋が悪知恵を働かせて1900年に制定したものです。「陸軍大臣、海軍大臣は現役でなかったらあかんで」という話です。つまり、軍部が大臣を出さなかったら内閣がつくれません。軍部に内閣を倒す権利を与えるような制度をつくったのです。

 それを山本権兵衛という海軍出身の総理大臣が「こんなアホな制度を残しておいたら日本は軍部の言いなりになるで」ということで、1913年に「別に現役でなくてもいい」と改定しました。山縣有朋の悪知恵を防いだわけです。

 それを広田弘毅が軍部を恐れて復活させてしまったのです。ここで日本の政党政治はほぼ終わりを告げます。

ドイツのヒトラー(写真:ユニフォトプレス)
ドイツのヒトラー(写真:ユニフォトプレス)

 スペインでは人民戦線政府が成立した後、フランコという軍人がモロッコで反乱を起こします。これをヒトラーやイタリアの独裁者ムッソリーニが支持して、できたばかりの自分たちの軍隊の力を試そうと思って有名なゲルニカの空爆などをやるわけです。このとき、ヒトラーとムッソリーニが手を結びます。

 中国では、蒋介石に追われた共産党が大長征で延安まで行きますが、この途中で毛沢東が共産党のリーダーになります。

 そして西安事件が起こります。蔣介石の国民党と結んで日本に抵抗した張学良を覚えていますよね。若いときはひたすらプレイボーイでアヘンを吸って遊んでいましたが、実は根性があります。その張学良が西安で蒋介石を監禁し、こう迫ります。「今、日本が中国に攻めてきている。共産党とけんかしている場合か。一致団結してまず日本を倒す方が先じゃないか」と。

 ここで毛沢東は、周恩来を西安に送ります。周恩来と蒋介石と張学良が話し合って、蒋介石は解放され、第2次国共合作で日本に対抗しようということになりました。

 ただ、蒋介石はものすごく執念深い人で、張学良を許せないと思って監禁します。しかも台湾に逃げたときも、張学良を連れていきます。さすがに有名人を殺したら国際的に自分の評判が悪くなるので、殺さずに台湾でずっと監禁しました。張学良が解放されたのは97歳ぐらいです。その後、100歳ぐらいまで生きたと思いますが、最後に回顧録を残していますよね。めちゃ立派な人です。

 この西安事件が起こったときに、もう1つ世界が仰天したことがありました。イングランドのエドワード8世という王様が、離婚歴のあるアメリカのシンプソン夫人と恋をして、王位を捨てました。それで弟に王位が回ります。その娘がエリザベス女王です。だからエリザベス女王はエドワード8世についてものすごく怒っている。「お父さんと楽しくのんびり暮らせたのに、おじさんが辞めちゃったから王様という厳しい仕事をしなければいけなくなったじゃない」と。イングランドは面白い国ですよね。

 1937年、日本は盧溝橋事件を起こして日中戦争が始まり、泥沼に突入していきます。日中戦争が起こったときの総理大臣は近衛文麿です。1938年1月、近衛文麿は「蒋介石を相手にせず」という有名な声明を出します。戦争している相手を「相手にしない」というのは、どうやって戦争を終わらせるのかという話ですよね。日露戦争を始めるときは伊藤博文が終わらせ方まで考えていました。それに比べ、いかに国としての指導者の能力が落ちているかということです。

 「蒋介石なんか相手にしない」といえば、国内的にはカッコイイかもしれませんよね。でも相手にしないということは、交渉を自ら捨てたということで、中国全土を攻め落とさない限り戦争は終わりません。こんな愚かな話はないですよね。

 1938年、ドイツはオーストリアを併合します。有名なミュンヘン会談が行われて、「チェコのズデーテンが最後の領土要求だ」とヒトラーは述べます。ヒトラーは巧妙に領土を広げてきたのですが、それは民族自決が第1次世界大戦のヴェルサイユ体制の方針だからです。「ドイツだけが何で民族自決が許されないのか」というのが、ヒトラーの建前です。

 ミュンヘン会談はチェンバレンという大英帝国の首相が仕切りました。腰抜けだからヒトラーの野望を助長したともいわれていますが、もともと、ヴェルサイユ体制でドイツだけに過酷な条件を押し付けた。だからドイツにも民族自決を認めたらイコールフッティング(同等の条件)になるので、これでドイツの拡大は終わるだろうと思ったのでしょう。実際、ミュンヘン会談の後、ロンドンに戻ったチェンバレンは「フェアな裁定をやってヨーロッパに平和をもたらした」と国民の喝采を浴びています。しかし、ヒトラーはもっと悪質だったのです。

 1938年11月、「水晶の夜」と名付けられたユダヤ人の迫害が始まります。ヒトラーはボヘミアとモラヴィアを併合しますが、これは民族自決とは関係がありません。いよいよ大英帝国とフランスは「これはあかん」ということに気が付くわけです。第2次世界大戦の始まりです。

 スペインではフランコが人民戦線政府に勝ち、独裁政権を樹立します。そして満洲では、日本とソ連軍が衝突するノモンハン事件が起きます。

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