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第1次世界大戦前夜、戦争は誰もやりたくなかった

 1914年、オーストリアの皇位継承者フェルディナント大公夫妻がサラエボでセルビア人に暗殺されます。有名な「サラエボ事件」です。なぜ、フェルディナント大公が民族紛争で荒れているバルカン半島にわざわざ行ったのかというと、これもハプスブルク家の愚かな政策がすべての原因です。フランツ・ヨーゼフ1世という皇帝があまり賢くなかったからです。

 ハプスブルク家は賢帝が出ない不思議な家系なのですが、この人もとんでもない頑固者でした。あまりにも堅苦しいので妻のエリーザベトはずっとヨーロッパを放浪し、2人の間に生まれたルドルフという皇太子は若い女性と心中してしまいます。皇太子が死んでしまったので、甥(おい)にあたるフェルディナント大公を皇位継承者にしたのです。

 フェルディナント大公は、ハンガリーの下級貴族のお嬢さんと恋をして幸せな家庭を築こうとしていたのですが、フランツ・ヨーゼフ1世は頑迷そのものですから、この甥の結婚に「ハプスブルク家にふさわしくない」と介入します。結婚は認めるが、貴賤(きせん)結婚なので子どもに皇位継承権は与えないし、ウィーンの宮廷で2人が並んで座ることも許さない、というのです。

 フランツ・ヨーゼフ1世が舞踏会を催す際には、皇位継承者であるフェルディナント大公の席次は皇帝の次ですが、妻は身分が低いということで、ほかの皇族から離されて末席に座ります。ところが、これはウィーンの頑迷な宮廷世界だけの話で、地方に出かけた際には2人は並んで座ることもできるし、人々から拍手喝采で迎えられます。だからフェルディナント大公は、ウィーンに居たくなくなり、地方に出かけていく。そこで凶弾に倒れたわけです。

 皇位継承者がセルビアの過激な民族主義者に殺されたわけですから、普通に考えればこれはオーストリアとセルビアの戦争です。ドイツもロシアもフランスも何の関係もないはずです。皇位継承者を殺されたオーストリアは激怒して、セルビアに最後通告を送ります。セルビアの後ろ盾になっていたロシアは、セルビアを助けようと思って動員をかけます。少なくとも戦争の準備をするぐらいのことを見せなければ、オーストリアをけん制できませんから。

 そこでロシアの皇帝、ニコライ2世が大臣に聞きます。「全軍を動員したらドイツを刺激するから一部だけ動員すればいいのではないか」と。これに対し大臣は、指揮命令系統がそんなに整ってないことを理由に「部分動員などできません。やるんだったら全軍に動員をかけるしか方法がありません」と返事をしてしまう。皇帝は「できないんだったらしょうがないな」といって動員令を発してしまうのです。愚かですよね。

 ドイツの皇帝もあまり賢くはなく、戦争をする気はない。「ロシアも戦争までの覚悟はないだろう」と思っていたのに、ロシアが全軍動員したのでドイツも動員します。露仏同盟を結んでいるフランスも、「ロシアがやるんだったらうちもやらないとあかんな」と考えて動員する。

 『夢遊病者たち』(みずす書房)という名著がありますが、そこには誰も戦争をしたくないのにずるずると戦争に入っていく様子が描かれています。そんな愚かな話で第1次世界大戦が始まってしまうのです。平和を維持するには、いかに優れた政治家が必要かということがよく分かりますよね。

 日本では、伊藤博文が「朝鮮民族はものすごく誇り高いし、日韓協約を第1次、第2次と結んで内政も外交も日本がコントロールできるようになったのだから、これで十分だ。韓国を併合したらあかん。絶対将来に災いを及ぼす」と考えていました。伊藤博文はやはり先を見ることができた人ですね。

 ところが、その伊藤博文が暗殺されてしまい、歯止めが利かなくなります。「日露戦争にも勝ったことだし」といって1910年に韓国を併合してしまいます。明らかに日本はおかしい道に踏み出していて、「大逆事件」という完全な冤罪(えんざい)をでっち上げて社会主義者を殺してしまうような暗黒時代に少しずつ入っていきます。

 大英帝国はアフリカの植民地を支配するにはノンキャリの官僚が必要だということで、アフリカにインド人を大量に連れてきます。大英帝国によるアフリカ植民地の支配構造は、階層の一番上にロンドンから来たキャリア官僚がいますが、実務や商売は全部インド人に任せていました。

 国外で活躍するインド人は「印僑」と呼ばれています。今でも東アフリカでは印僑が商売で活躍していますよね。これは、大英帝国がインド人を連れてきた名残です。中東も同じです。例えばアラブ首長国連邦(UAE)のドバイでも、インド人が多くの商売を手掛けています。大英帝国は人口が少ないので、自分たちは指示を出すだけで、実務を担当するノンキャリとしてインド人を連れてきたわけです。大英帝国は、そういう面では非常に合理的な国です。日英同盟もそうです。また明治時代の日本は進取の気概にあふれていたので民間には面白い人がたくさんいました。だから中国から革命を志す人が日本にどんどん留学にやってきました。孫文がそうですし、周恩来も1年半日本で勉強しています。懐が深かったのです。

 その中で、梅屋庄吉という日本人の大富豪が孫文と深い友情を結びます。「君は革命を起こせ。自分は事業でもうけたお金で革命を支える」と孫文に伝えます。今の金額にして兆円の単位に上るという人もいますが、映画産業を日本で興してもうけたお金を「辛亥革命」につぎ込みます。

 1911年、ついに中国で革命が成功して孫文が南京で臨時大総統になり中華民国が成立します。しかし、まだ北京には満洲族出身の清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)がいます。孫文は「宣統帝の退位と引き換えに臨時大総統の座を譲る」と軍閥の袁世凱と取引を行います。しかし、袁世凱はとんでもない人で、今度は自分が皇帝になろうと考えます。その結果、中国では、南京に成立した孫文の政府と北京の軍閥という争いの構図ができあがります。