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立命館アジア太平洋大学(APU)の出口治明学長の世界史講座。第10回は2度の世界大戦が勃発した20世紀前半。偶発的に起きた「サラエボ事件」で、誰もやりたくなかった第1次世界大戦が勃発。日露戦争で勝利した日本は“火事場泥棒”のような行動をとってしまった。敗戦で巨額の賠償を負ったドイツはヒトラーを生み、「開国」の精神を忘れた日本は孤立。国際協調と軍縮の機運は消え、第2次世界大戦に突入する。そして、「戦後」の世界をアメリカがつくっていった。

■目次

  • 日本が仕掛けた日露戦争で日米関係悪化へ
  • 第1次世界大戦前夜、戦争は誰もやりたくなかった
  • アメリカの参戦とスペイン風邪で第1次世界大戦が終結
  • ヴェルサイユ体制がつくった現在の国際関係の原型
  • 国際協調と軍縮の流れに背を向けた日本の暴走
  • ヒトラーの「第3帝国」と泥沼に入る日中戦争
  • 第2次世界大戦の勃発と「総力戦」を学ばなかった日本
  • 終戦後のビジョンをつくった上で参戦したルーズベルト
  • 開国を捨て、富国・強兵だけに突っ走った日本の悲劇

※本ゼミナールは、「2019年度APU・大分合同新聞講座」を収録・編集したものです

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出口治明氏 立命館アジア太平洋大学(APU)学長
1948年、三重県美杉村(現・津市)生まれ。1972年、京都大学法学部卒業後、日本生命保険相互会社入社。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て2006年退職。同年、ネットライフ企画株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。2008年、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。2012年上場。10年間社長、会長を務める。2018年1月より現職。(写真:山本 厳)

日本が仕掛けた日露戦争で日米関係悪化へ

 20世紀はよく考えてみると、世界史の上では本当に戦争の世紀だったと思います。

 まず新興のドイツ帝国が、ベルリンからイスタンブール(古名はビザンチウム)、そしてイラクの首都バグダッドにつながる鉄道を敷設しようという「3B政策」を構想します。鉄道は軍隊の高速移動に適していて、戦車や兵隊を乗せて大軍を運ぶことができます。つまり、ドイツの狙いはその先にあるインドです。ナポレオンがエジプトを占領して大英帝国の力の根源であるインドを狙ったように、ドイツも同じことを考えてくさびを打ち込もうとしたのです。

 これに対する大英帝国の政策が「3C政策」です。1つはエジプトのカイロから南アフリカのケープタウンまでのアフリカ縦断政策です。フランスが西アフリカのセネガルからアフリカ大陸を東に横断しようとしていたのを断ち切るのが狙いでした。もう1つは、カイロとインドのカルカッタ(現在のコルカタ)、ケープタウンとカルカッタを結んで、ドイツのくさびを海で食い止めようという政策です。「3B政策」や「3C政策」という名称は、都市の頭文字を取って後で学者が付けたものですが、大変分かりやすいですよね。要するに、ドイツと大英帝国が世界の覇権を争っていたというのが、20世紀初頭の一番分かりやすい構図です。

 1902年、日英同盟が結ばれます。大英帝国がケープタウンから北に攻めて行ってボーア人の国のトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を占領してしまったのは、ダイヤモンドと金が出たからです。当然ボーア人は激怒してゲリラ戦を行い、大英帝国は50万人の大軍が南アフリカにくぎ付けになって人手が足りなくなりました。そこで日清戦争に勝利を収めた日本と同盟を結びます。ロシアとのグレートゲームを争う中で、日本をいわば雇い兵として使おうとしたのです。

 この同盟を結んだことで、日本は安心して日露戦争を起こします。日露戦争については、司馬遼太郎が、南下するロシアに対して、日本が耐えに耐えて乾坤一擲(けんこんいってき)の勝負を挑んだという美しい物語を書いていますが、これは歴史上は逆の話です。

 ロシアは、国内が騒然としていました。1903年にはボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党の多数派)とメンシェヴィキ(同少数派)が分裂し、レーニンがボリシェヴィキの指導者になっています。そんなロシアの状況につけ込み、今だったら満洲の権益を取れるかもしれないと思って日本がロシアにちょっかいを出したというのが史実です。つまり、日露戦争は日本が仕掛けたのです。戦争が始まった後でも、1905年にロシアでは「血の日曜日事件」が起き、それから「戦艦ポチョムキンの反乱」があり、ニコライ2世が国会開設の約束をするというように、大変荒れていました。ロシアは満洲にそれほど構っていられません。

 ただ、司馬遼太郎さんの名誉のために言っておくと、ウソを書こうとしたのではないと思います。執筆当時は冷戦で、ロシアに関するデータも十分ではありませんでした。そのため歴史の細部がよく分からず、確信犯ではなく善意で書いたのだと思います。しかし、あまりにも文章がうまいので、それが史実であるかのように多くの人が錯覚してしまいました。

 話を戻しますが、幸運なことに当時の日本には伊藤博文という元老が生き残っていました。彼は世界の情勢をよく見ていたので、日露戦争が始まるや否や、金子堅太郎という日本の政治家に巨額の資金を持たせてワシントンに送り込みます。金子堅太郎は岩倉使節団のときの留学生でアメリカに長い間暮らし、ハーバード大学を出て無二の親友をつくっていました。その親友がセオドア・ルーズベルトです。アメリカの大統領になっていたわけですね。

 伊藤博文は、ロシアは内乱で弱っているから最初は勝てるかもしれないけれど、国力が違うため、最後はアメリカに仲介を頼む以外に戦争を終らせる方法はないということが分かっていました。終わらせ方を計算した上で日露戦争を始めたのです。

 結果的に伊藤博文の読みが当たって、セオドア・ルーズベルトが仲介して日露戦争は終わります。ただ、もともと無理をして仕掛けた戦争なので、多くの人が死にました。

 政府は国内の世論が反戦になびくのを恐れて「勝った、勝った」と言いまくりました。でも実際は苦戦続きです。ロシアはあと3年でも5年でも戦争を続けられる体力を持っていましたが、日本は陸軍も海軍も兵たんが延び切ってこれ以上戦いを続ける体力がない。そこでルーズベルトが仲介してロシアは南樺太を日本に割譲しました。小村寿太郎という有能な外務大臣が粘り強く交渉を行って、日本には有利な結果となりました。

 ところが国民は怒ります。「日清戦争では当時の予算の2倍ぐらいの賠償金が取れた。日露戦争でもそれぐらい取れると思っていたのに、取れなかった」と思ったのです。日本は戦争を続けられる状況にはなかったのですが、国民はそれを知らされていないので、小村寿太郎が帰ってきたら「日比谷焼き打ち事件」が起きます。新聞も「これだけ死んだのに賠償金も取れないのか」と政府を批判する記事を書く。そうすると逆恨みで「この仲介をしたアメリカはけしからん」と世論が変わっていきました。

 皆さんがセオドア・ルーズベルトだったらどう思いますか。「何という国や。友情からえこひいきを目いっぱいして仲裁したのに逆恨みをするなんて。こんな国は信頼できない」と思いますよね。ここから日米関係はおかしくなっていきます。やはり無理をして仕掛けた日露戦争の戦後処理が、日本の命運を決した分水嶺だと思います。