全19019文字

開国と明治維新の本当の恩人は阿部正弘

 1853年、中国との交易のため太平洋航路を開拓すべくペリーが日本に来ます。開国です。このとき、徳川幕府の老中首座を務めていたのが、阿部正弘という人でした。いわば、総理大臣のような役目です。この人は大変賢く、しかも長崎の出島からの情報でアヘン戦争の結末を知っていましたので、鎖国を続けていると日本は持たないと考えていました。産業革命と国民国家という2大イノベーションに日本は乗り遅れたので、これからは国を開いて世界から学び、交易でもうけて、軍隊も強くしないとえらいことになると考えたのです。「開国・富国・強兵」というグランドデザインを描いて、国を開きました。

 鎖国は、徳川幕府の基本方針で、家光の時代から200年も続けてきました。それをやめるというのですから、大変な勇気が必要だったと思います。阿部正弘という、めちゃ優秀な人物が宰相だったことが日本の幸運でした。この人は、東大や陸軍や海軍のもとをつくっています。幕府の官僚にも、勝海舟に代表される若くて有能な人材を登用しています。それだけではなくて、自身の福山藩では義務教育のもとになる教育も始めています。さらに広くみんなの意見を聞こうとしました。五箇条の御誓文にあった「万機公論に決すべし」も阿部正弘のアイデアです。明治維新の骨格のほとんどすべては阿部正弘が安政の改革で構想しています。彼こそが明治維新の大恩人ですね。

 しかし、司馬遼太郎さんの興味が阿部正弘ではなく坂本龍馬にあったために、阿部正弘はほとんど知られていません。実は、坂本龍馬はほとんど何もしていないようです。もし何かをしていれば、生き残った西郷隆盛や大久保利通、桂小五郎が明治政府を樹立した後、「これは龍馬のおかげやで」と話すと思いませんか。そのような記録は何もありません。

 明治維新の幸運はもう1つありました。この1853年という年は、クリミア戦争が起こった年です。つまり、ヨーロッパ列強の関心がヨーロッパに向いていたのです。もしアジアに目が向いていたら、ペリーの後、イングランドやフランス、ロシアの軍艦がどんどん江戸湾に入ってきたかもしれません。そうしたら幕府も冷静な対応はできなかったかもしれません。ヨーロッパ列強の目がクリミア戦争に向いていた幸運もあって、阿部正弘は1年間じっくり考えて国を開くことができたわけです。

 中には、治外法権を認めたのはけしからんという人もいますが、幕府の体制自体がそもそも治外法権です。幕府の法律が適用されるのは直轄地だけで、薩摩藩のことは島津家が裁いていたのです。日本の封建制そのものが治外法権を前提としていたので、徳川幕府にしてみれば、薩摩藩のことは薩摩藩に任せている。だから、アメリカについてはアメリカに任せるというのはごく当たり前の対応だったのです。ですから徳川幕府が無知だったから不平等条約を結ばされた、というのは後知恵です。最近の歴史学者は、ペリーに対する日本の対応はとてもよく練られていたという評価をしています。よく考えて国を開いています。だからあんまり混乱は起こらなかったわけですね。

 インドでは1857年に初めての第1次独立戦争が起きています。昔はセポイの反乱といわれていました。それから1854年、日米和親条約を結んだ年に、アントニオ・メウッチというイタリア系の発明家が電話を発明します。でも彼はめちゃ貧乏でした。金策に走っても、誰もお金を貸してくれない。そのうちに1876年にアメリカ人のグラハム・ベルがアントニオ・メウッチの電話の技術で、勝手に特許を取ってしまいました。だから長い間、電話はベルが発明したと思われていたのですが、ベルは横取りしただけです。今では名誉は挽回されて、歴史上も電話の発明はメウッチがしたということになっています。特許というのは上手に使わないと大変だということが分かりますよね。

 1858年、イングランドはインド統治法をつくって、最終的にムガール朝が滅び、インドは大英帝国の一部になります。1860年には勝海舟が乗った咸臨丸が太平洋横断を果たしています。

 中国も実は鎖国をしていました。1819年、イングランドはシンガポール島を獲得して開発しようとしますが、いかんせん、労働者がいません。そこで中国人を働かせようと考えます。そして1860年の北京条約で移民を公認させました。労働者をがんがん中国から連れてきてシンガポールなどを開発しようとしたのです。これが今、世界で5000万人、6000万人ともいわれている華僑の始まりです。イングランドは本当にしたたかです。お金(賠償金)も中国から、開発する労働者も中国から持ってきたわけですから。でもそのおかげで、東南アジアの経済は中国人が取り仕切るようになったというわけです。

 明治維新は1868年に起きました。阿部正弘のビジョンは「開国・富国・強兵」でした。これに対して薩長の理念は、尊皇攘夷。尊皇とは、昔に帰るということです。攘夷は、外国人を見たら切りつけるということです。

 しかも薩長は若手が政権を握っていましたから、勝手に攘夷を実践して薩英戦争と下関戦争を引き起こします。その結果、ぼこぼこにされて、大久保利通や伊藤博文は、尊皇攘夷はあかんということを悟るわけですね。「やはり阿部正弘は賢い、開国・富国・強兵しか日本が生きていくことはできない」と。でも尊皇攘夷で幕府を倒すんだと振り上げた拳を下ろさなければ先には進めません。だから、とりあえず幕府を倒したわけですね。これが明治維新の実相です。