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ナポレオンの没落とウィーン体制

 当時アラビア半島では、サウード家という豪族がワッハーブ派という過激なイスラム教のグループを奉じて王国をつくっていました。今のサウジアラビア、サウード家が始まったのです。あまりに過激なのでオスマン朝が怒って、エジプトを支配していたムハンマド・アリーというアルバニア人に討伐を命じます。ムハンマド・アリーは戦争に強く、アラビア半島に出兵してワッハーブ王国を滅ぼします。サウード家はいったん、野に下ります。

 南米ではシモン・ボリバルという人がベネズエラで独立宣言を行い、スペインから自立しようとします。シモン・ボリバルもヨーロッパにいて、ナポレオンの自由、平等、友愛という伝染病にかかっていました。ですから南アメリカの独立運動も元をたどればすべて、ナポレオンの影響です。

 1812年、アメリカとイングランドが戦争を始めます。これはなぜかといえば、ナポレオンの大陸封鎖令に対してイングランドも同じく逆封鎖令を出しいたので、アメリカはヨーロッパに物が売れませんでした。それで怒って戦争を始めたのです。このときに『星条旗』という国歌が生まれて、アメリカは真の独立を達成します。ナポレオンの大陸封鎖令はアメリカ大陸まで影響を与えていたわけです。

 大陸封鎖令はイングランドとヨーロッパ大陸の我慢比べでしたが、ロシアがついに我慢ができなくなって、大陸封鎖令から出ようとします。怒ったナポレオンはモスクワに遠征しますが、冬将軍に敗れてロシアから敗退します。ロシア遠征で初めてナポレオンの大陸軍が敗れたわけですが、ヨーロッパの各国は喜んでまた対仏同盟を結び、ナポレオンを倒そうとします。それが1813年の「ライプツィヒの戦い」です。

 このときの連合軍の将軍はベルナドット。でもこれは恩を仇(あだ)で返したというよりも、スウェーデンの国益を考えて、これ以上フランスを大きくしてはいけないと考えたのだと思います。ベルナドットが総司令官になってナポレオンを打ち破り、ナポレオンは1814年に退位してエルバ島に流されます。

 イングランド、オーストリア、ロシア、プロイセンはウィーン会議を開き、ナポレオン後のヨーロッパの在り方を巡って議論しますが、そうこうしているうちにナポレオンはエルバ島を脱して1815年3月にパリに入って復位します。しかし、「ワーテルローの戦い」で連合軍に敗れて同年6月に退位します。この間のことを「百日天下」というのは、皆さんもよくご存じだと思います。

 かわいそうなのは、ナポレオンの後に残された皇太子、ローマ王のナポレオン2世です。母親がオーストリアの皇帝のお嬢さんだったので、ウィーンの宮廷に引き取られます。フランツ1世にとっては孫に当たるわけですから大事に育てます。でも、ナポレオンの悪口を言い聞かせながら大事に育てるわけですね。母親のマリー・ルイズは本当に平凡なお嬢さんでナポレオン2世をかわいがっていましたが、ここでオーストリアの宰相メッテルニヒは、ナポレオン2世からマリー・ルイズを引き離し、イタリアのパルマの統治者に任命します。

 ただ、マリー・ルイズだけでは仕事ができないので、オーストリアの貴族で仕事ができる最高のプレーボーイを部下として付けます。メッテルニヒの思惑通り、マリー・ルイズは誘惑されて、子どもを生んで、ナポレオン2世の元には帰らなくなります。メッテルニヒは大局観こそ持ちませんでしたが、こういう小細工はものすごくできる人でした。

 ところで、ナポレオン2世の元には、フランスからこっそりと何人もの人が忍んで来ます。そして、父親であるナポレオン1世の偉大さを教えるわけです。だからナポレオン2世は自分で勉強して、父親の跡を継ごうと決心します。でも母親はいない。フランツ1世も大事にはしてくれるけれど自由にはさせてくれない。その中でもけなげに立派な軍人になろうとして一所懸命軍事教練をやって、風邪を引いて二十歳になるかならないかのころに死んでしまいます。

 ウィーン会議では、ナポレオンが流刑にされた後のヨーロッパの後始末をどうするかが議論されました。普通に考えたら、プロイセンはナポレオンに戦争を仕掛けて敗れた領土を半分取られているわけです。勝ったのはロシア、プロイセン、イングランド、オーストリアですから、今度はフランスの領土が半分ぐらいになってもおかしくないでしょう。

 ところがフランス代表にタレーランという、とんでもなく有能な策士がいました。お坊さんで有名画家ドラクロワのお父さんです。フランス革命でも活躍し、ナポレオンの下でも活躍したそのタレーランが「何が悪かったかといえば、国王を処刑したことだ。ナポレオンだけが悪いのではなくて、フランス革命が悪かったんだ」と、自分がこれまでやってきたことを棚に上げて、分かりやすいロジックをつくり上げたのです。そうするとヨーロッパの皇帝たちは「確かにそうやな。俺たちは、フランス革命がルイ16世を殺したのをけしからんといってフランスに戦争を仕掛けたんだよな。悪いのはフランス革命だったんだ、そうだ、そうだ」となったのです。

 そこでタレーランが「元に戻せば世の中はすべて丸く収まりますよ」と述べると、みんながパチパチと拍手をして「そうだ、元に戻そう」ということになり、フランス固有の領土は少しも取られなかったのです。軍事力がなくても、誰もが納得する理屈をつくり出せば外交交渉はできるという素晴らしい見本ですね。あるいは、会議を主催したメッテルニヒに大局観がなかった。あんまり賢くなかったということがあるかもしれませんね。

 「ウィーン会議」の結果、ベネチアを含めて共和国は全部潰されました。悪いのは革命≒共和制ですからね。イングランドはネーデルラントからスリランカとケープ植民地(南アフリカ)を分捕ります。ネーデルラントの国王がナポレオンの弟だったからですよね。ネーデルラントにとっては、えらい迷惑な話でしょう。ネーデルラントはナポレオンに占領されて王様を押し付けられただけです。それを口実にして、イングランドはインド洋交易のポイントになるスリランカとケープタウンを獲得する。イングランドは本当に利にさといというか、賢いですね。

 ロシアはフィンランド大公とポーランドの王位を得る、オーストリアは北イタリアを領土にします。つまり「共和国はあかん」というイデオロギーですから、ここでベネチアは潰されるわけです。これもえらい迷惑な話です。プロイセンは元に戻る。フランスのブルボン家は全く領土を減らしていません。面白いですよね。悪いのは革命であって、フランスではないと。だから元に戻せば世の中はよくなるという理屈をつくったわけですね。これがウィーン体制です。

 南北アメリカでは全部独立していきます。アルゼンチン、チリ、メキシコ。これは結局、ナポレオンの自由、平等、友愛という伝染病が南北アメリカにも波及したということです。1823年には「モンロー宣言」が出ていますが、これはヨーロッパに対してアメリカ大陸のことについては口を出すなというのが本当の狙いですよね。その代わりアメリカもヨーロッパのことには口を出しませんからというわけです。このあたりからアメリカは、新大陸の主人は自分だという方針を取るようになっていきます。