「ポーランド継承戦争」が浮き彫りにしたヨーロッパの権力構図

 次はポーランド継承戦争です。スウェーデン王のカール12世が死んだ後、もともとのポーランドの王位はザクセン選帝侯が持っていましたから、ザクセンのアウグスト2世がポーランド王に復位していました。ところがアウグスト2世の死後、カール12世が擁立したスタニスワフ1世が再びポーランドの王様に返り咲きます。

 なぜスタニスワフ1世が復位できたかというと、フランスのルイ15世の妃がスタニスワフ1世の娘だったからです。つまり、フランスがバックアップし、フランスとポーランドが結んで、ポーランドの王位を獲得したわけです。しかしそうなると、ザクセンはもちろん、ロシアも怒ります。スウェーデンをやっつけたのはロシアですからね。

 それから、フランスのブルボン朝に対しては、ドイツのハプスブルク家は必ず反対の陣営に加わります。ポーランド継承戦争は、フランスのブルボン朝とイタリアのサルデーニャ対ザクセンとオーストリア(ハプスブルク家)、ロシアの戦争になります。

 サルデーニャがなぜフランス側に付いたかというと、サヴォイア公の本拠地だったサヴォイアはフランスのすぐ横にあります。今のニースのあたりです。イタリアを統一するためには、自分たちがイタリアに戦争を仕掛けている間に後ろからフランスに攻め込まれたら大変です。ですから、サルデーニャはずっとフランスに「仲良くしましょうね」とこびるわけです。

 ポーランド継承戦争で何が起きたかを見ていくと、ヨーロッパ諸国の力関係が分かりやすいですよね。

 ポーランド継承戦争は2年間続きましたが、ウィーンの和議(1735年)で、スタニスワフ1世には「王様の称号はあげますが、1代限りですよ。ロレーヌというところを統治してください。これも1代限りです。ポーランドはザクセンに戻しますよ」ということになりました。ロレーヌ侯爵は領地を取られてかわいそうですね。

 でもそのとき、メディチ家が治めていたフィレンツェでは、ジャン・ガストーネという最後の大公が死にかけていました。子どももいない。それでロレーヌ公には「ジャン・ガストーネはもうじき死ぬからトスカーナをあげますよ。いいですね」という話で全部が丸く納まったわけです。

 1737年、予想通りジャン・ガストーネが死んだので、ロレーヌ公のフランツ・シュテファンがトスカーナ大公になりました。領地のやりとりって結構いい加減で面白いですよね。

 メディチ家にはもう1人、アンナ・マリア・ルイーザという女性が残っていました。彼女1人では、大国が取り決めたウィーンの和議に文句は言えません。ただ1つ、彼女はいいことをしました。新しいトスカーナ大公に対して「メディチ家が集めた宝物は全部トスカーナ政府に差し上げます。ただし、その宝物が公開されフィレンツェにとどまることを条件として」という遺言を残したのです。だからウフィツィ美術館が生まれ、フィレンツェに美術品が残ったのです。

 1740年、そのハプスブルク家でマリア・テレジアが即位します。同じ年にプロイセンではフリードリヒ2世という、結構こすっからい王様が即位して、ハプスブルク家領のシレジアに侵入。シレジアは、ポーランドとドイツとオーストリアの国境にあります。フリードリヒ2世は、マリア・テレジアが女性だったので見くびって、シレジアを横取りしちゃったわけです。ここでオーストリア継承戦争が起こります。

 このプロイセンの動きに乗じて、ザクセンやバイエルンなどドイツのほかの諸侯も「この際領土をみんなで分捕ってやろう」と考えてハプスブルク家に戦争を仕掛けてきます。当然、フランスのブルボン家は、ハプスブルク家を目の敵にしていますからプロイセンに味方します。これに対して、あまりフランスが大きくなってしまったら困るのはイングランドです。そこでイングランドがハプスブルク家と連合を組むと、それにネーデルラントも味方します。このあたりはパワーバランスというか、権力均衡の絵に描いたような戦争ですね。

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