立命館アジア太平洋大学(APU)の出口治明学長の世界史講座。第8回は18世紀の世界。欧州ではスペインやポーランド、オーストリアの王位継承問題をきっかけに列強の権力争いが広がり、アジアではオスマン朝(トルコ)、サファヴィー朝(イラン)、ムガール朝(インド)の3大帝国が衰退していった。英国では産業革命が起き、アメリカの独立戦争をきっかけにフランスにも「自由と平等」という概念が広がり、フランス革命が勃発して「国民国家」が誕生する。

■目次

  • 北方戦争とスペイン継承戦争で幕を開けた18世紀
  • 英エリザベス女王の先祖はドイツ出身
  • オスマン朝、サファヴィー朝、ムガール朝……アジア3大帝国の落日
  • 「ポーランド継承戦争」が浮き彫りにしたヨーロッパの権力構図
  • マリア・テレジアの執念が起こした「外交革命」
  • イングランドの産業革命はインドがきっかけだった
  • 「分割して統治せよ」というイングランドのしたたかな戦略
  • 「代表なくして課税なし」、税金問題が革命を起こす
  • 新聞がフランス革命を勝利に導き「国民国家」が誕生する
  • フランス革命が生んだ「保守 vs 革新」のイデオロギー

※本ゼミナールは、「2019年度APU・大分合同新聞講座」を収録・編集したものです

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<span class="fontBold">出口治明氏 立命館アジア太平洋大学(APU)学長</span><br />1948年、三重県美杉村(現・津市)生まれ。1972年、京都大学法学部卒業後、日本生命保険相互会社入社。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て2006年退職。同年、ネットライフ企画株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。2008年、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。2012年上場。10年間社長、会長を務める。2018年1月より現職。(写真:山本 厳)
出口治明氏 立命館アジア太平洋大学(APU)学長
1948年、三重県美杉村(現・津市)生まれ。1972年、京都大学法学部卒業後、日本生命保険相互会社入社。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て2006年退職。同年、ネットライフ企画株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。2008年、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。2012年上場。10年間社長、会長を務める。2018年1月より現職。(写真:山本 厳)

北方戦争とスペイン継承戦争で幕を開けた18世紀

 18世紀に入ります。後継ぎのいないスペインの王様カルロス2世が死にそうになって、フランスのルイ14世がスペインの王位を狙っています。ルイ14世の王妃はスペインの王女なので、継承権はあるのです。みんながマドリードに注目している間に、ロシアとポーランドが中心になってスウェーデンに戦争を仕掛けました。北方戦争です。スウェーデンのカール12世という王様は18歳。即位したばかりです。こんな若造だったら圧勝できると思って戦争を仕掛けたところ、カール12世は実は戦争の天才で「ナルヴァの戦い」でロシア軍は負けてしまいます。

 ところが、カール12世はやっぱり若かったのです。ロシア軍を大敗させたので「次はポーランドやな」といって、ポーランドに転戦したのです。ポーランドではなく、そのままモスクワに直行してロシアの息の根を止めてからポーランドに行けばよかったかもしれないという学者もいるのですが、そうはしませんでした。

 カール12世はポーランド王に自分のいうことをよく聞くスタニスワフ1世を即位させたものの、方々でゲリラ戦が起こって、ポーランドの平定に5年も費やしてしまいました。ということは、ロシアのピョートル大帝は5年間の時間を稼げたので、この間にロシア軍を立て直します。歴史に「if(イフ)」はないのですが、1つの決断で運命が大きく分かれるということですね。

 マドリードではカルロス2世が死んで、ルイ14世の孫であるフェリペ5世が相続ましたが、早速スペイン継承戦争(1701年)がはじまりました。オーストリアのハプスブルク家やイングランドが反対派の急先鋒(せんぽう)で、戦いは12年も続きます。ベルリンにいたブランデンブルク選帝侯フリードリヒ1世は「スペインまで何でかなきゃらなんのか」と兵隊を出し渋ります。

 ハプスブルク家のレオポルト1世は、フリードリヒ1世を何かの餌で釣ろうと思い「プロイセンの王様にしたるで」と言ったのです。フリードリヒ1世はそれまではブランデンブルク選帝侯爵であり、プロイセン公爵です。いずれも王号よりは下です。彼はこれに飛び付いて、さっさとプロイセンの首都ケーニヒスベルクに行って、王様になってしまいました。ここにプロイセン王国が誕生したのです。これも、あまり賢くない皇帝が、助っ人が欲しいが故に王号を付与してしまったことに全ての原因があるのです。

 イングランドでは、アンというメアリー2世の妹が次の王様になることが決まっていました。しかし、アンはものすごく太っていて病気持ち。結婚していましたが、赤ちゃんが生まれる可能性はほとんどありませんでした。

 そこでイングランドの議会は、1701年に王位継承法をつくります。その際、議会としてはローマ教会の信者は嫌なので、「ジェームズ1世の外孫であるハノーファー選帝侯妃のソフィーの子孫にのみ王位が継承される。ただし、ローマ教会の信者は駄目」と定めたのです。これにより、ソフィーの子孫でローマ教会信者でなかったら誰でも王位継承権を有するることになりました。

 その後、ソフィーの子孫は増え続けます。今、エリザベス女王の王位継承権を持っている人は1000人を超えています。ですから、ある意味イングランドの王室はとても強靱(きょうじん)です。これだけいたら絶対断絶しません。もちろん男性でも女性でもいいんです。

 スウェーデンのカール12世は1707年、ついにロシア遠征に踏み切りますが、ナルヴァの戦いに勝ってからもう5年もたっていますから、ピョートル1世の方も軍隊を立て直して待ち構えている。それで、1709年の「ポルタヴァの戦い」でスウェーデンは敗れて、カール12世はオスマン朝に亡命します。そして今度はオスマン朝の客人となってロシアと戦うのです。それが1711年の「プルートの戦い」で、ここではオスマン朝が圧勝しました。

 この戦いでピョートル大帝は捕虜になる寸前までいくのですが、ピョートル大帝が「黒海の北にあるロシアが占拠したアゾフという土地を全部返しますから、命だけは助けてください」というので、オスマン朝は鷹揚(おうよう)にも助けてしまうのです。2回も窮地を脱したピョートル大帝は、とても幸運な人です。

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