鉄砲が騎馬軍団に勝った軍事革命とジャンヌ・ダルク
15世紀でもう1つ大きな出来事は、ティムールに敗れて一度滅びたオスマン朝が再び立ち上がったことです。
ティムールの後、子どものシャー・ルフが、約40年間ティムール帝国で君臨します。ティムール帝国はシャー・ルフが生きている間は安泰だったのですが、シャー・ルフが死んで子どものウルグ・ベクが即位すると、サマルカンドとヘラートという2つの都に分かれて争いを始めます。これは独立するいいチャンスだと考えたイラン方面にいたカラコユンル朝のジャハーン・シャーが自立。その後20年くらいイラク一帯を制覇します。これもトルコ人の政権です。
ペルシャにジャハーン・シャーによる大帝国ができ上がると、よみがえったオスマン朝と争うことになります。それが1473年の「バシュケントの戦い」です。これがどうして世界史的に意味があるかといえば、オスマン朝はバルカン半島で勢力を伸ばしたので、基本的にキリスト教徒の子どもをもらってきて歩兵に仕立て上げたわけです。有名なイエニチェリ軍団です。その歩兵に鉄砲を持たせました。鉄砲を持った歩兵と今までユーラシアで無敵を誇った騎馬軍団との激突では鉄砲が勝利を収めました。
ここから何千年にもわたって無敵を誇った騎馬軍団のたそがれが始まります。いくら馬で速く走っても鉄砲には勝てません。このような軍事革命が起こったのがこのバシュケントの戦いです。
オスマン朝が強大になってきたら、コンスタンティノープルのローマ帝国はどうなるのかという問題が起こります。
「英仏100年戦争」の前半では、シャルル5世というすごく賢い王様がフランスを仕切って、イングランドを追い返したのですが、そのシャルル5世の子どものシャルル6世が精神に異常をきたします。それを機にフランスの王室が内輪揉めを始めたので、イングランドのヘンリー5世はチャンスと思い、100年戦争を再開します。そして、有名な1415年の「アジャンクールの戦い」でフランス軍を撃破。ブルゴーニュ公と同盟を結んで、パリを占領してしまいます。
このときに、シャルル6世はパリを明け渡して子どものカトリーヌをヘンリー5世に嫁がせ、シャルル6世の王位はヘンリー5世が継ぐという屈辱的な「トロワ条約」を結んでしまいます。つまりシャルル6世の子ども、後のシャルル7世は、あらゆる位を剥奪(はくだつ)されたのです。
この条約を結んだ後、ヘンリー5世とカトリーヌの間には一粒種の男子、後のヘンリー6世が誕生します。ヘンリー5世はめちゃ喜びます。自分はイングランド王で、フランス王位の継承権も持っているし、後継ぎも生まれた。これで英仏統一帝国ができると喜んだのも束の間、運命のいたずらで、疫病で死んでしまいます。その直後、シャルル6世も没します。
これによって、わずか1歳のヘンリー6世が、イングランドとフランスの王様になったわけです。当然政治はできないので、ヘンリー5世の弟が摂政になってフランスを仕切ります。そのときに、フランス側の抵抗拠点だったオルレアンをつぶそうということで大軍をおくるわけですが、そこにジャンヌ・ダルクが現れたのです。
ジャンヌ・ダルクが現れて、イングランド軍を撃退し、シャルル7世を引っ張ってランスまで連れていって戴冠させます。でも、その後ジャンヌ・ダルクはブルゴーニュ公に捕まって、火あぶりになってしまう。このとき、シャルル7世は助けにいきませんでした。シャルル7世にしてみれば、ジャンヌ・ダルクは名もない田舎の乙女。王様になってしまったので、詳しい報告がなければ分からないわけです。
その後、ジャンヌ・ダルクは長い間忘れられます。ジャンヌを再発見したのはナポレオンです。フランス革命の後、ヨーロッパ中の国が「フランス革命はとんでもないことだ。ルイ16世を殺しよった」「こんな国はつぶさんと自分たちも大変だ」と大騒ぎになりました。イングランドもプロイセンもオーストリアもロシアも王様がいますからね。だから、ヨーロッパ中の国々が大同盟を結んでフランスをつぶしにやってきました。
そのときにナポレオンが新聞に書きまくるわけです。「フランスはえらい危機やで。四方八方全部敵や。でもな、昔にもそんなことがあったんや。パリが取られてフランスが滅びそうになったとき、田舎からジャンヌ・ダルクという乙女が現れてフランスを救ったんや」とアジったわけです。
ナポレオンもコルシカという田舎から来た無名の若者です。だから、ジャンヌ・ダルクを再発見することによって、自分と重ね合わせて、フランスのナショナリズムをあおったわけです。ナポレオンによってジャンヌ・ダルクは救国の英雄になりやがて教会の聖人にもなります。ただし、聖人になったのは1920年。20世紀になってからです。だから、ナポレオンが再発見するまでは誰も知らなかった。
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