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立命館アジア太平洋大学(APU)の出口治明学長の世界史講座。第6回は15~16世紀の世界。東アジアでは鎖国状態の中国・明に対して、お茶、絹、陶磁器などの世界商品を求める「北虜南倭」が広がり、大西洋ではコロン(コロンブス)が新大陸に到達する。ヨーロッパではジャンヌ・ダルクが登場。英仏100年戦争が終結し、ローマ帝国が滅亡して、その後、16世紀に入ると宗教改革が広がり、日本にはザビエルが訪れた。勢力を増すオスマン朝に対して東欧諸国も鉄砲で武装。モンゴル高原から草原の道で陸続きだった欧州の境に「壁」ができ、「ヨーロッパ」という世界観が誕生した。

■目次

  • インド洋に浮かぶ「帝国」と世界商品を狙う「北虜南倭」
  • 鉄砲が騎馬軍団に勝った軍事革命とジャンヌ・ダルク
  • ローマ帝国の滅亡とハプスブルク家が「結婚」でつかんだ幸運
  • コロンの新大陸到達と印刷革命
  • ポルトガルの台頭と「ヨーロッパ」という世界観の誕生
  • イタリアの混迷とルターの宗教改革
  • フランス料理の誕生、そしてザビエルの来日
  • 豊臣秀吉の朝鮮出兵は、本当に誇大妄想だったのか?
  • オスマン朝スレイマン大帝が生み出した「不平等条約」
  • 新大陸を得たスペインを没落させた「血の純潔規定」

※本ゼミナールは、「2019年度APU・大分合同新聞講座」を収録・編集したものです

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出口治明氏 立命館アジア太平洋大学(APU)学長
1948年、三重県美杉村(現・津市)生まれ。1972年、京都大学法学部卒業後、日本生命保険相互会社入社。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て2006年退職。同年、ネットライフ企画株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。2008年、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。2012年上場。10年間社長、会長を務める。2018年1月より現職。(写真:山本 厳)

インド洋に浮かぶ「帝国」と世界商品を狙う「北虜南倭」

 15世紀の中国で永楽帝が即位します。永楽帝は、明の創始者、太祖・洪武帝、つまり朱元璋(1328~98年)の4番目の男子です。朱元璋は、長男を皇太子にして二男、三男、四男を西安や大同、北平(今の北京)に派遣してモンゴル(北元)から中国を守らせていました。

 朱元璋はとても疑い深い人で、例えば宦官(かんがん)にわざと手紙を見せて読んでみろと言って、宦官が読めたらその場で殺してしまうのです。猜疑心が強いので、字が読める宦官は自分のメッセージを書き直すかもしれないと恐れたのです。そのため、自分の子どもしか信頼できず、子どもを北の守りに置いていました。

 ところが長男が早く死んだので、孫の建文帝が即位したのですが、建文帝にとってはおじさんたちが西安や大同、北京で大きな軍事力を持って君臨していたら嫌ですよね。そのため、おじさんたちを順につぶそうとするのです。それを恐れた北京の四男は先に戦争を仕掛けて、建文帝を殺して自分が三代永楽帝となりました。

 モンゴル世界帝国は中国から今のトルコまで広がっていたわけですが、その後、中国の本土は永楽帝が取り、残ったフレグ・ウルスやチャガタイ・ウルス、ジョチ・ウルスは、ティムールが取りました。

 その頃、バルカン半島ではオスマン朝という、トルコ人の王朝が勃興しつつありましたが、ティムールとバヤズィト1世(オスマン朝)が今のトルコの首都アンカラのあたりで雌雄を決し、ティムールが圧勝します。バヤズィト1世は捕虜になって死んでしまい、ここでオスマン朝はいったん滅びます。 

 その結果、モンゴル世界帝国は東を永楽帝、西をティムールが分捕りました。当然、今度はこの2人が雌雄を決しようとします。1404年にティムールは中国へ出立します。ところがティムールは途中で病死しました。これでモンゴル世界帝国の領土の大半は、ティムール朝と明がとりあえず山分けするという形で固定します。

 永楽帝は、ずっと北京で育った人です。北京をつくったのはクビライです。クビライは大航海によって陸と海を結び付けました。そこで自分も「負けたらあかん」と宦官の鄭和(ていわ)に大艦隊を託してインド洋に送り、朝貢を呼びかけます。これが海に浮かぶ帝国といわれた、鄭和の大艦隊です。どれだけすごいかといえば、艦隊の中心となった宝船は1200トン前後といわれています。学者によって異論がありますが、一番小さく推測しても800トン。大きく推測する人は8000トンと考えています。

 また鄭和艦隊の規模は、何十隻もの船に合計2万7000人を超える人が乗船していたという記録があるので、これはもう海に浮かぶ帝国です。そのため、インド洋の沿岸諸国で争いが起きたら、鄭和艦隊を味方にした方が勝つわけです。ほぼ100年後の1492年にコロン(コロンブス)がアメリカ大陸に到達したときの艦隊が3隻から成り、一番大きい船でも150トン程度、乗組員が88人とのことでしたから、いかに規模が大きいかが分かります。これによってインド洋の海賊は全て滅ぼされてしまいました。

 永楽帝の後、永楽帝の子どもや孫が位を継ぎます。明は永楽帝の子どもや孫の時代までは大丈夫でしたが、その次に即位した正統帝はあまり賢くない皇帝でした。明は、建前は海禁で鎖国。朱元璋が商人や知識人を憎んでいたので、「商売なんかとんでもない」といって海禁を断行したわけです。

 しかし、世界中の人は中国が鎖国したら困るわけです。なぜかといえば、絹やお茶、陶磁器という世界商品を中国は山ほど持っていたからです。これらはみな中国に行かないと買えないので、海禁したらほかに入手する方法がないので、中国に攻め入ってくるわけです。モンゴルから攻めてくるのを北虜といいます。南の方から倭寇(わこう)が攻めてくるのを南倭といっています。要するに、中国は山ほど世界商品を持っているので、鎖国してデパートの扉を閉めたらみんなが困って、「開けろ!」とドアをガンガンなぐっていたのが「北虜南倭」だと考えれば分かりやすいでしょう。

 ちなみに、江戸時代に日本がなぜ鎖国をできたかといえば、世界商品がなかったからです。安土桃山時代に山ほど出た金や銀を掘りつくしたので、「もう日本に行っても金も銀もないわ」というわけです。鎖国したいんだったら放っておこう、というのが、日本が鎖国をできた理由で、やっぱり鎖国も自分勝手にはできないことが分かりますよね。

 正統帝は、永楽帝が5度モンゴルに親征して戦争に勝ったように、モンゴル高原からオイラートの首領エセンが攻めてきたとき、自分も手柄を立てようと思って、押っ取り刀で出掛けていくわけです。ところが、「土木の変」で負けて捕虜になってしまいます。中国の皇帝で捕虜になったのは、これが史上唯一の例です。クーデターで捕虜になった例はたくさんありますが、わざわざ前線に出掛けて行って戦場で捕虜になったのは正統帝だけです。

 エセンは、皇帝を捕虜にしたからには北京はすぐに降伏するだろうと思ったのですが、中国には于謙(うけん)という根性のある総理大臣がいて、正統帝の弟の景泰帝を皇帝に立てて徹底抗戦します。北京は城壁で守られていますからエセンは攻め落とすことができずに、モンゴルに帰ります。それで正統帝の方はというと、捕虜になっても自分は皇帝だと思っていますから、「飯がまずい」とか「もっときれいな服を持ってこい」とか文句を言っている。中国の皇帝を捕虜にした前例もないので、エセンは困って北京へ送り返してしまいます。

 つまり、北京では皇帝が2人となりました。当然、于謙は景泰帝を立てていますから、今さら正統帝に帰ってきてもらっては困る。そこで、正統帝を捕らえて軟禁します。ところが、景泰帝が病気になったときに正統帝を担ぐ人が出てきて、クーデターが起きて正統帝がまた皇帝に返り咲くことになります。