#4
温暖化が中国を大繁栄に導き、権力の空白が十字軍を生んだ
イスラムの拡大と中世の春をもたらした11~12世紀
これまでに世界1200都市以上を訪問し、読んだ本は1万冊以上という「知の巨人」、立命館アジア太平洋大学(APU)の出口治明学長の世界史講座。第4回は気候が温暖化した11~12世紀。中国では様々な革命が起きて急速に豊かになり、中東では権力の空白が生じて十字軍が誕生。イスラムがインドやアフリカにも広がり、ヨーロッパはイスラム世界からギリシャの古典を再輸入して「中世の春」と呼ばれる時代に。
■目次
- 唐から宋へ、気候温暖化と革命ラッシュで人口が1億人の大台に
- 宋を安定させた“ODA”システム
- 中産階級の育成と富国強兵策
- イスラムのインド・アフリカ進出
- 12世紀ルネサンス
- 皇帝と教皇の対立と十字軍の誕生
- “オールスター”の第3回十字軍
- 希代の天才、フェデリーコ2世の誕生
- 朱子学の誕生と平清盛の貨幣経済導入
- 中世の春と「ノートルダム」
※本ゼミナールは、「2019年度APU・大分合同新聞講座」を収録・編集したものです
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第3回武則天と持統天皇、東アジアは「女性の世紀」
出口治明氏 立命館アジア太平洋大学(APU)学長
1948年、三重県美杉村(現・津市)生まれ。1972年、京都大学法学部卒業後、日本生命保険相互会社入社。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て2006年退職。同年、ネットライフ企画株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。2008年、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。2012年上場。10年間社長、会長を務める。2018年1月より現職。(写真:山本 厳)
唐から宋へ、気候温暖化と革命ラッシュで人口が1億人の大台に
中国の長い歴史の中では、唐から宋に移る時代(11世紀初頭)が大革命(構造改革)の転機でしょう。前回、科挙が完成して、全中国から集まった有能な官僚が皇帝独裁制を確立したという政治革命の話をしました。皇帝と、全国から集まった有能な官僚が結び付くと、外戚や貴族の出る幕はなくなります。この時代、日本では外戚の藤原道長が我が世の春を謳歌していたことに比べれば、ものすごく進歩した社会です。
それから、次に農業革命が起こります。これは気候が温暖になり、暖かくなったときにチャンパ米という早生(わせ)のお米が入ってきて、二期作ができるようになったからです。簡単にいえば、生産性が上がって食料が倍つくれるようになったわけですから、倍の人口を養うことができました。それまでの中国の人口は漢の時代も唐の時代も最大5000万~6000万人でしたが、この時代に1億人の大台に乗ります。
この頃、お茶が普及してきて、みんながお茶を飲むようになります。すると陶磁器産業が発達します。有名な陶磁器の景徳鎮の名称(景徳)はこの時代の年号です。また、燃料としてコークスも使われるようになって、高温で料理ができるようになりました。中国料理の完成です。いまでも中国料理は高温の油で食材を揚げますよね。
海運革命も起こりました。ジャンク船は絵で見たことがあると思いますが、船室をたくさんの小さい部屋で仕切ってあるので、穴が空いても簡単には沈みません。海上では羅針盤も実用化されるようになりました。
中国が海に出ていくことになったので、媽祖(まそ)という福建省の娘が海の神様になってあがめられるようになりました。966年には広州に宋が市舶司を置いています。これは税関で、役所の組織をつくって国が率先して海に乗り出し始めたのです。
ほかにも唐から宋への間には様々な革命が起こります。長安と、東京(とうけい)とも呼ばれる開封(かいほう)の町を比べてみると、長安は門がありました。この門は夜になると閉じられます。一方、開封は不夜城です。茶館や喫茶店、パブができ、劇場では人々は講談を楽しみました。そこで大人気となった名裁判官の包拯(ホウジョウ)の物語は「大岡越前」の物語の祖型です。大道芸も発達しました。
いかに開封が夢のように華やかな町であったかということは、中国の国宝中の国宝である『清明上河図』や『東京夢華録』に記録されています。
こんなにいいことだらけに見える宋の時代ですが、1つまずいことは女性の地位が変化したことです。開封は北京と広州を結ぶ京杭運河の結節点にあった交易の町です。唐の時代、拓跋国家の女性は本当にたくましく、男性顔負けでした。ところが、豊かになったことで「女性は働かんでもええ。家の奥にいて、なよなよしていればええんや」という風潮が生じてくる。要するに、専業主婦という生き方が可能な経済状態になったところに儒教が加わったので、例えば、なよなよ歩くのがセクシーだということで、足を固めて人間の足をハイヒールにする纏足(てんそく)といった風習が起こってきます。宋の時代から女性は家の中に閉じ込められるようになります。これは朱子学の影響が大きいものと考えられています。
宋を安定させた“ODA”システム
宋の時代が安定したのは、「澶淵(せんえん)システム」がうまく働いたからです。北にあったキタイ(契丹)という国では第6代の聖宗(せいそう)という名君が即位していました。中国の歴史でこの聖という字が付いているのは、聖宗と「聖祖」という廟号を持つ清(1616~1912年)の康熙帝(こうきてい)の2人です。康熙帝は説明するまでもなく、中国史上で最も優れた皇帝の1人ですね。いかに契丹の6代皇帝がすごかったかということです。
この人が大軍を率いて、南下してきます。宋は第3代真宗(しんそう)という坊っちゃんの時代です。真宗は慌てて「長江の南に逃げよう」と言い出します。でも、幸か不幸か、寇準(こうじゅん)という根性がある大臣がいたので、真宗をひっぱたくわけです。「何を言っているんですか、あなたは中国の皇帝ですよ。GDP(国内総生産)はうちの方が上です。負けませんで」と言って、嫌がる真宗の首に縄を付けて、澶淵というところまで引っ張っていき、ここで大軍と大軍が対峙します。
そこでどうしたかというと、寇準と聖宋が交渉して澶淵の盟という同盟を結ぶのです。要するに、これは政府間開発援助(ODA)です。銀10万両と絹20万匹を与えるから、平和に暮らそうねという話です。
これは朱子学では後にお金で平和を買った屈辱的な条約だと曲解されますが、現在のODAと一緒です。豊かな宋がキタイに銀と絹を与え、その銀と絹をもらったキタイはそれで中国の陶磁器や絹を買いあさるわけで、またお金が戻ってくるわけです。こういう優れたシステムで300年間中国は安定するのです。それが「澶淵システム」です。
ところが、真宗は都へ帰って「ああ、怖かった」と思っているわけです。そうすると、茶坊主がそこにしゃしゃり出て「怖い思いをさせた寇準はけしからんから首にしましょう」と進言して首を切ってしまう。そして、「あなたは恥をかいたんだから、恥をそそがなあかん」とおだてて、封禅という儀式をさせる。要するに、山東省まで行って泰山に登らせてお祭りをやるわけです。
これは始皇帝などが何百年も前からやっていた行事ですが、そんなことをしたって山の神様は喜ばない。それよりも立派な政治をした方がいいのにとみんなが思っていたのですが、こういうアホなことをやったことからも真宗というのはあまり賢くない君主だったということが分かります。
それでこの前後、もう1つ大きい出来事は、パガン朝という政権がミャンマーにできたことです。新しくできた政権は新しいことをやりたがるもので、新しい仏教はないかということで、スリランカから上座仏教、上座部を採り入れます。
ミャンマーが上座仏教をスリランカから採り入れたことによって、タイやカンボジアに上座仏教が広がっていきます。「教え」としては上座仏教が一番古いのですが、東南アジアに伝わったのは最後です。最初が大乗仏教、その次がチベット仏教、密教、そして上座仏教です。
中産階級の育成と富国強兵策
宋はお金で平和をあがなったわけですが、その宋に第6代神宗の時代に王安石という素晴らしい天才政治家が現れます。中国では素晴らしい宰相が何人も生まれていますが、王安石はその中でも誰よりも傑出した能力を持っていたと思います。
なぜならば、王安石の考えた全ての政策が整合的で何一つ矛盾がない。大きい国の政策をこれほど矛盾なく次から次へと考えられる人はそういないと思います。
王安石がやろうとしたことは中産階級の育成です。人間は自由競争をさせたら、金もうけが上手な人と苦手な人がいるわけですから、必ず社会は二極化してしまいます。それをきちんと税金を集めて、上手に再分配していくことによって、中産階級が生まれて社会が安定します。
王安石はまさに中産階級を育成するという明確な目標の下、富国強兵策を採り、科挙を改正しました。それまで上手な詩を作れる人が偉かったのですが、「そんなもの詩文だけでは政府の役に立たへんで。経済とか法律が大事やで」と、儒教の教科書をほとんど全部自分で書き換えます。国家公務員になる人はその教科書で勉強するわけですから、国家公務員はみんな王安石の考えに染まっていきます。
また、中国には天と地に上位の神様がいて、そのほかにもたくさん神様がいるという発想があります。しかし、山ほどいる神様をお祭りすることは経費の無駄使いになりますよね。だから、小さい政府がいいということで、礼政を改革し、天と地を祭るだけにしてしまいます。
中国はこうして世界に先駆けて富国強兵策を採ろうになっていこうとするのですが、そこで天候不順が起きたり、王安石に反対する大商人や大豪族が足を引っ張ったり、いろいろな問題が起こります。中産階級を育てる政策は、大商人や大豪族を押さえることになりますからね。そういう人々が第6代神宗のお母さんにがんがんプレゼンをして、「王安石の改革を続けたら大変なことになりますよ」と言うので、お母さんの意志を受けた神宗がついに王安石を首にするのです。
それが新法、旧法の争いという形になります。旧法党の大将が司馬光という人です。でも、旧法には何のイデオロギーも政策もありません。改革に反対というだけの話です。これによって中国は大発展の機会を失うことになったわけです。しかし王安石が考えた政策は、後にヨーロッパではコルベールがルイ14世の下で重商主義として行うことになります。それよりも何百年も早く中国でこういう人が生まれていたということ自体が、驚きですね。
イスラムのインド・アフリカ進出
イスラム世界に話を移します。ガズナ朝(962年~)は今のアフガニスタンを根拠に大王町を築いたのですが、そこにマフムードという天才が現れて、初めてインドに本格的な侵入を始めます。ここからインドがイスラム国家になっていく素地が生まれます。このときに南インドではチョーラ朝(846年~)という大帝国が起こっていて、ラージャラージャ1世、あるいはラージェンドラ1世という英傑活が現れ、スリランカやマラッカに遠征して海洋帝国をつくります。インド商人が東南アジアに本格的に出ていくきっかけはチョーラ朝です。
インドでは北と南で大帝国が生まれつつあるったのですが、ではペルシャの方ではどうだったか。突厥(とっけつ)とウイグルが滅んで、チュルク系の部族が西方に進出していく中でイスラム教徒と出合い、イスラム教を受容した集団がトゥルクマーンと呼ばれるようになったという話をしましたね。そのトゥルクマーンの優秀な男子を養子として譲り受けて、英才教育を施して、マムルーク、いわば奴隷として、イスラム王朝の親衛隊として植え付けていった、という話をしました。そのトゥルクマーンのマムルーク出身のトゥグリル・ベグが大きくした王朝が、セルジューク朝(1038年~)です。「ダンダーンカーンの戦い」でガズナ朝を破ってさらに強盛となり、バグダードに入城してカリフからスルターンに任命されます。
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