全15406文字

これまでに世界1200都市以上を訪問し、読んだ本は1万冊以上という「知の巨人」、立命館アジア太平洋大学(APU)の出口治明学長の世界史講座。第3回は6世紀から10世紀までの500年間。西欧ではフランク王国が誕生し、ローマ教会が東ローマから独立。中国では、隋・唐の世界帝国が統治した時代だ。日本では持統天皇が「日本」という国家の基礎をつくる一方、西方ユーラシアではイスラム教が西進してギリシャ、ローマの多神教の世界が姿を消す「一神教革命」が成就した。

■目次

  • ヨーロッパの“焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)”と日本への仏教伝来
  • イスラム教の誕生と「コーランか剣か」の真実
  • イスラム教の拡大がもたらした「一神教革命」
  • 唐の成立と朝鮮のクーデター、日本の「大化の改新」
  • 武則天と持統天皇、東アジアの「女性の世紀」
  • フランク王国の栄華とローマ教会の自立
  • バイキングは海賊ではなく商人だった
  • 拓跋帝国とフランク王国の終焉(しゅうえん)

※本ゼミナールは、「2019年度APU・大分合同新聞講座」を収録・編集したものです

おすすめ
第2回知の大爆発、哲学もキリスト教も仏教もここで生まれた
出口治明氏 立命館アジア太平洋大学(APU)学長
1948年、三重県美杉村(現・津市)生まれ。1972年、京都大学法学部卒業後、日本生命保険相互会社入社。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て2006年退職。同年、ネットライフ企画株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。2008年、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。2012年上場。10年間社長、会長を務める。2018年1月より現職。(写真:山本 厳)

ヨーロッパの“焚書坑儒”と日本への仏教伝来

 今回は6世紀の世界から話を始めます。

 東ローマ帝国にユスティニアヌスというちょっと困った皇帝が現れます。前回お話ししたように諸部族が入ってきて中国は南に逃げました。ローマは貧しい西を捨てて東に逃げたので、東ローマ帝国はまとまりつつあったわけです。ところがユスティニアヌスは誇大妄想狂のような人だったので、もう1回、西半分を取り戻そうとしたのです。

 まず手始めにアテネにあったアカデメイアとリュケイオン、プラトンとアリストテレスがつくった大学をつぶしました。「もう『聖書』以外のことはローマ帝国内では教えへんで」と。そうするとキリスト教徒は喜びますから、ユスティニアヌスには大帝と「大」を付けて呼びます。ローマ帝国で「大」が付く皇帝は、コンスタンティヌス、テオドシウス、ユスティニアヌスの3人ですが、全員キリスト協会にごまをすった人です。

 簡単にいうと、ここでヨーロッパにおける焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)が完成します。アカデメイアとリュケイオンの先生たちはどうしたかというと、ペルシャに逃げました。当時のペルシャはサーサーン朝という王朝で、世界帝国の伝統を受け継いでいました。ジュンディーシャープールという町にすばらしい大学や図書館を持っていました。先生たちは創始者の本を全部持ってペルシャに逃げ、この地でギリシャ、ローマの古典が守られていったのです。

 現在、プラトンの著作のほとんど全てと、アリストテレスの著作も3分の1ぐらい残っているといわれています。今、私たちが『プラトン全集』とか『アリストテレス全集』を読むことができるのは、アカデメイアとリュケイオンが800年ぐらい続いたからです。ほかの思想家は自分の大学を持てなかったので原典の多くが散逸しました。

 ユスティニアヌスは西方に群を出し、20~30年かけてほぼ西ローマ帝の旧領を回復したのですが、未開の民族に荒らされたところを回復したので、お金がかかり兵隊も必要でローマ帝国はがたがたになります。当時、ペルシャではホスロー1世という名君が即位していました。東方の国境もきなくさくなります。

 

 日本ではこの時期、538年に聖明王が百済から来て仏教が伝来したといわれています。仏教はどうやって伝えられたかというと、仏教は教えではなく最新の技術体系であると考えてください。仏教を信じようと思ったらお寺を造ったり仏像を作ったり、鈴や木魚などの法具を作ったりしなくてはいけない。お経も作らなくてはいけない。これは1つの技術体系なんです。

 しかし、どこの国でも最新の技術体系は教えませんよね。日本はアメリカから戦闘機を買っています。しかも日米安保条約を結んでいるのに、戦闘機の心臓部分は全部ブラックボックスで日本は見ることができません。それほど技術体系は大事なんです。

 では、何で百済が日本にそういう技術体系を教えてくれたのでしょうか。実は当時の百済は、高句麗や新羅に押され、国が滅ぶかどうかの瀬戸際にありました。538年というのは百済が新羅に攻められて南に逃げながら2回目の遷都をした年です。「もう何でも教えてやるから、なんとか助っ人(兵隊)を送ってよ」というのが本当の姿です。

 僕はいつも「日本史はない」と話しているのですけれど、日本史だけを勉強していたら「538年に仏教が伝わった」で終わります。しかし、そういう貴重なものが何で日本に伝えられたかということは、朝鮮半島の状況を見なければ分からないですよね。

 仏教は日本だけではなく、朝鮮半島にもベトナムにも伝えられています。新しい教えが来たら、古い教えとの間に必ず争いが起こります。日本でいえば蘇我氏と物部氏の戦い(丁未の乱)がそうです。しかし、どの国でも仏教を受け入れる方が圧勝しています。ゼネコンが喜ぶからです。仏教を受け入れるといったら、「よし、お寺、造ってやるわ」「仏像、受注きたわ」と、いっぱい仕事がくるからです。物部氏に付いたら仕事がきますか? 経済的合理性を考えたら勝負の結果はすぐに分かりますよね。

 中国では、581年についに隋が建国され南北が統一されます。これは暖かくなったからだと考えてください。暖かくなれば穀物がたくさん収穫できて兵糧が確保できる。大軍を動かせるんです。逆に寒いと食べるだけで精いっぱいで大軍を動かせない。だから分裂の時代になるのです。

 ところで、隋という大帝国ができると、周辺諸国は「えらいでかいのができたな!」とびっくりするわけです。特に朝鮮半島や日本のような国は、分裂していた南北双方に朝貢してバランスを取っていたりしたので、隋に対してかわいいポチになるのか、やっぱりある程度頑張って自立するのかという選択を迫られることになります。

 日本も遅れて600年に初めて遣隋使を出して様子を見に行きました。そこであまりの大帝国に仰天して、「えらいこっちゃな。こりゃ、国内を固めなあかん」となりました。それで冠位十二階や十七条憲法の原型をつくります。日本では長らく聖徳太子がつくったといわれてきましたが、たぶん蘇我馬子だと思います。恐らく聖徳太子という人はいなかったのではないでしょうか。いたのは、皇族の厩戸王(うまやとおう)という人でした。