稲盛和夫氏が主宰した「盛和塾」で、経営者たちは何を学んでいたのか。それは「経営者とは何者なのか」という根源的な問いに対する答えである。名経営者とその門下生たちの対話をまとめた『経営者とは 稲盛和夫とその門下生たち』から、一部を紹介する(第2回の記事はこちら)。第3回は、自社内に「稲盛和夫の部屋」までつくった鳥取県米子市の経営者を取り上げる。稲盛氏の「追っかけ」として、長年、師を間近で見てきた。その目に映ったものは何か。(文中敬称略。肩書や組織、事実関係などは本書初版発行の2013年時点のもの)
米子空港から左手に日本海を眺めながら、車を走らせること20分。表通りから一本路地に入った住宅街で、大畑憲は出迎えてくれた。大畑は鳥取県米子市で、ダックスという会社を30年以上経営している。カーディーラーや消費者を相手に、車のガラスを販売・交換するのが事業の柱だ。山陰・山陽エリアを中心に首都圏や東北など、全国に約20店舗を展開。大半の同業者は地元県内だけで経営しており、ダックスのように全国に積極展開する会社は珍しい。この業界で大畑の名前は、ちょっとした風雲児として通っている。
実はダックスの本社は、大通り沿いの開けた場所にある。この住宅街にあるのは旧本社で、社員研修のときだけ使っている。普段は人けのない旧本社を訪れた理由は、ただ一つ。ある部屋を見せてもらうためだ。その名も「稲盛和夫の部屋」。
「稲盛和夫の部屋」と控えめな字で書かれたドアを開けると、大人の背丈ほどもあるガラスケースが目に飛び込んできた。中をのぞき込むと、実際に稲盛が口をつけたグラスや、サイン入りの著書が飾られている。「稲盛塾長のぬくもりがあるグラスをどうしても手元に置いておきたくて、盛和塾の例会があったホテルのスタッフに頼み込み、こっそりもらってきました」と大畑は頭をかく。
奥に進むと稲盛の全著書、全映像作品がそろう書棚がある。そして壁一面には稲盛のパネル写真の数々。にこやかに笑っている顔、険しい表情の顔、托鉢(たくはつ)修行をしているときの神妙な顔。大畑は経営のことで迷うと、「稲盛和夫の部屋」に一人でこもり、稲盛ならこの局面をどう切り抜けるのかと沈思黙考してきた。毎年元旦には稲盛の写真の前で最敬礼し、新年の誓いを立てるのが習わしになっている。
「この部屋は私の神聖な場所です」
大畑にとっては、さながら礼拝室か告解(こっかい)室といったところか。建物の構造上、奥の部屋からトイレに行くときは、この「稲盛和夫の部屋」を通らなくてはならない。心に後ろめたさがあるときは、すべてを見透かすような稲盛の視線を感じ、思わず足早に通り抜けてしまう。経営に自信があるときは、無意識のうちに胸を張ってゆっくり歩いている。
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