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更家悠介(さらや・ゆうすけ)
1951年生まれ。74年、大阪大学工学部卒業。75年、米カリフォルニア大学バークレー校工学部衛生工学科修士課程修了。翌年、サラヤに入社し、取締役工場長、常務、専務などを歴任。98年社長就任。89年には、日本青年会議所会頭を務めた。2014年渋沢栄一賞受賞(写真=行友重治)

Q. 調印済みの初の海外合弁事業。しかし、創業者の父が突然「やめよう」と席を立った。驚いた息子はどうした?

A. 父とぶつからないように、合弁話を1人で進めた

 経営者人生の壁ですか? 2代目なのでおやじやろうね(笑)。立ちはだかって邪魔されたりしてね。今でも一番思い出すのは1995年1月、米国進出に反対され、大げんかになった話です。

 サラヤは父が1952年に創業し、殺菌・消毒のできる手洗い石けん液と専用容器を開発したのが始まりです。今はコンシューマー向けのヤシノミ洗剤で知られていますが、食品衛生や公衆衛生にも幅広く事業展開しています。

 米国には食品衛生の合弁会社をつくることになっていました。サラヤにとって初めての海外進出。現地のパートナーはこの事業にかけるため、勤めていた会社を辞めたほどです。当時専務の私がこの話は進めていました。

 父は「うん、ええよ」とは言っていたのですが、軽い感じでしたので、あまり真剣に考えていなかったのかもしれません。こちらも軽い気持ちで父を米国に連れて行き、パートナーを訪ねました。しばらくすると、父は突然こう口にしたんです。

 「うちはやめて、こちらさんにお任せしたらどうや」

  「日本に帰る!」

 もう、びっくりしましたね。向こうは会社を辞めてまで本腰を入れようとしている。調印も済ませた。なのに、この期に及んで「やめとけ」はないでしょう。そう詰め寄ったら、父は「日本に帰る!」と席を立ったのです。

 といっても、父は英語を話せないし、空港までの行き方も知りませんので付いていきましたけれど、これからどうしよか。父はどういう意図で反対をしたんだろうと考え込みました。

 おそらく、合弁話のどの部分が気に入らないというのはなかったと思うんです。初めて相手の話を直接聞いて、リアリティーが出てきた。それで、漠然とした不安が募ったのかもしれません。

 創業者には特有の癖があると思います。前向きさと慎重さが矛盾せずに同居して、アンビバレンスというか。あるところまではノリが良くても、あるところからは急に慎重になる。米国市場はあまり知らないから、手を出さんとこうと思ったのでしょう。

 実は父自身、昔、新規事業として仏壇の製造に乗り出したことがあったんです。高名な僧侶から、「先祖を大切にせなあかん」という話をさんざん聞いたからなのか、主力部隊を仏壇のほうに移して、3年頑張りました。でもうまくいかなかったですね。

 そういう痛い経験はどの企業でもあると思うんです。しかも父の場合は、完全にものづくりの人でしたからね。

 ヤシノミ洗剤にしても、「このロゴを右に1ミリ動かして」「線の太さをちょっと変えて」などと、かなり細かい。その分、あまり外に出るのは好きではなく、営業はもっぱら私でした。