稲盛和夫氏が主宰した「盛和塾」で、経営者たちは何を学んでいたのか。それは「経営者とは何者なのか」という根源的な問いに対する答えである。名経営者とその門下生たちの対話をまとめた「経営者とは 稲盛和夫とその門下生たち」の中から、一部を紹介する(第1回の記事はこちら。第2回は、福岡市で塗料販売会社を経営する西井兄弟の物語。日産自動車の下請けが経営危機から這い上がるきっかけとなった師の言葉とは。(文中敬称略。肩書や組織、事実関係などは本書初版発行の2013年時点のもの) 

 「わざわざ東京から福岡まで、遠路お越しいただいたのは本当にありがたいのですが、私たち兄弟、大した話は何もできやしませんよ。1929年創業と歴史だけはそれなりにありますけど、リーマン・ショックに東日本大震災、次から次へと押し寄せる荒波に、兄弟と従業員、みんなで力を合わせ、必死になって会社を存続してきただけです。もっとも一番つらかったのは、その前に起きた日産リバイバルプランですが……。稲盛塾長には足を向けて寝られません。塾長のおかげで、あのとき私たちは助かったんですから」

 西井塗料産業(2015年にニシイへ商号変更)社長の西井一史(かずふみ)は遠慮がちにそう言って、隣に座る専務の博文を見た。

 270人の従業員を抱える西井塗料産業は、九州最大の塗料専門商社だ。一史の祖父が九州初の塗料販売店を創業し、以来、建築用や工業用などさまざまな市場で顧客を開拓してきた。福岡空港にほど近い本社の玄関を入ると、色とりどりの塗料サンプルが並んだ「ペインティングギャラリー」が広がり、社内は活気に満ちている。営業所は九州全域に広がり、東京や愛知、大阪にも常駐の従業員がいる。

 博文は、一史の3歳下の弟で営業面を統括している。腹蔵なく何でも話し合える兄弟であり、二人三脚で難局を乗り切ってきた同志でもある。かつて立ち上がれないほどの経営危機に直面した西井塗料産業。そのとき2人は何を考え、どのように行動したのか。西井兄弟の経験から、「経営者とは何か」を導き出したい。

日産の発表に凍りつく

 事の始まりは1999年10月18日だった。

 一斉にすべての生産ラインがストップし、静まり返った日産自動車九州工場(現日産自動車九州)に、日産リバイバルプランを読み上げる日産のトップ、カルロス・ゴーンの声が響き渡った。工場の一角で、一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてていた博文は、部品を納入するサプライヤー数を今後3年間で半減するという発表に凍りついた。

 西井塗料産業は日産が九州に生産拠点を設けた75年からのつき合い。リバイバルプラン発表時は、売上高の2割を占める年間50億円の取引があった。それまで塗装ラインは車体の下塗り、中塗り、上塗りをそれぞれ数社のサプライヤーで分け合っていたが、各工程1社に絞られることになった。どこまで納入価格を引き下げられるか。サプライヤーからの提示を受け、4カ月後に日産が選定するという。

 塗料メーカーはコスト削減の余地が比較的大きいが、西井塗料はメーカーと組んで、塗料を納める販売店にすぎない。自力で削減できるコストはしょせん知れていた。コスト勝負になれば、日産から真っ先に切られてもおかしくない。そして日産から切られれば他業界の取引先にも影響し、「塗料商社はもはや時代遅れだ」と取引を見直す動きが出てくるかもしれない。そんな最悪の展開も一史の頭をよぎった。

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