舟橋正剛(ふなはし・まさよし)
1965年愛知県生まれ。92年米リンチバーグ大学経営大学院修士課程修了。93年電通入社。97年シヤチハタ工業(現シヤチハタ)に入社。常務、副社長を経て2006年から現職。20年6月期の売上高は157億円、従業員数は355人(いずれも単体)(写真:早川俊昭)
Q. コロナ禍で「ハンコ不要論」が叫ばれる中、トップメーカーとして今後いかに生き残るか。
A. 「自己否定」する製品を打ち出した
当社の代名詞とも言える通称「シヤチハタ印」の累計出荷本数は1億8000万本。発売から50年余りたった今なお、当社の屋台骨を支えてくれている商品です。
昨今の「ハンコ不要論」で、シヤチハタ印の需要減を心配してくださる人は少なくありません。確かに今後は、現状維持では生き残っていけない時代になるでしょう。
とはいえ、私は会社の未来に希望を抱いています。なぜなら当社は、自社の看板商品を超越するような新しい商品を繰り返し開発し、ここまで成長してきたからです。
いずれこの商品は消える
1925年、祖父・舟橋高次とその兄の金造が名古屋市で創業した舟橋商会がシヤチハタの原点です。最初に開発した商品が、インクが乾かない「万年スタンプ台」でした。
当時、スタンプ台のインクはすぐに乾いてしまうため、使うたびにスタンプ台にインクをしみ込ませる必要がありました。そこで空気中の水分を吸収するインクを開発。万年スタンプ台はインクを補充せずに連続して使えるという画期的な商品でした。
当社は万年スタンプ台で社業を拡大したものの、祖父たちは高度経済成長期を迎える頃、「いずれスタンプ台はなくなる」と予測していました。多くの企業で事務作業が急増し、効率化のニーズが高まっていたからです。その後、十数年に及ぶ試行錯誤の末、スタンプ台が要らない、インク内蔵のハンコ「Xスタンパー」が完成しました。65年のことでした。
20年鳴かず飛ばず
さらに当社では95年にパソコン上で決裁する電子印鑑システム「パソコン決裁」を発売しています。これは経営陣ではなく、社員の発案で開発が始まったものです。随分前から、デジタル化によりハンコ不要の時代が来るかもしれないと考えていたのですね。
これを発展させ、2015年から販売しているのが「パソコン決裁Cloud」です。紙に印を押していたものを、そのままデジタルに移行したようなシンプルな仕組みで、従来の運用を変えずにすぐに誰でも使えると、導入企業の評判は上々です。
正直に言えばデジタル事業は立ち上げから二十数年間、鳴かず飛ばずでした。それでも諦めずに取り組み続けたのは、いずれデジタルで決裁するようになるに違いないと思っていたからです。
ようやく昨年あたりから問い合わせが増え始め、コロナ禍で申し込みが驚くほど増加しました。それまでひと月の申し込み件数は2000件程度でしたが、3月下旬から6月まで無料開放したこともあり、この間の新規登録申し込み件数は約27万件に達しました。
デジタル事業の売り上げは全社で見ればまだ数%にすぎませんが、これから伸ばしていかなければならない事業だと考えています。
危機感を抱ける理由
スタンプ台を製造しながらスタンプ台不要のハンコを開発したり、ハンコを売りながらハンコが要らない電子印鑑システムを販売したりするなど、自社商品を否定するようなことがなぜできるのか。
「自己否定のDNA」などとメディアではきれいな言葉で語られますが、何のことはない、私が考えるに、心配だからだと思います。ハンコがいきなりゼロにはならないにせよ、少なくとも半分になる可能性はある。その仮説に基づき、次の柱を打ち立てるべくずっと動いてきました。
業界自体が右肩上がりではありませんから、常に危機感は持っています。それに日々の暮らしの中でも需要減を痛感します。
例えば、宅配便などの受け取りの際に「ハンコは要りません」と言われることが増えました。町内会の回覧板や、子供の学校からの連絡などでもハンコを使う場面が減っています。そうした状況に接するたびに否が応にも危機感が生まれます。だからこそ次の商品開発に取りかかれるのでしょう。
実際、ハンコの需要も毎年多少の増減はありつつも、減少傾向であることは間違いありません。特に19年と20年で比較すると、1割くらい出荷数は減っています。需要そのものが失われているのか、新型コロナによる影響なのか、理由はまだ分析できていませんが、これまでに1年間で1割落ちることはありませんでした。
もし今の時点で「デジタル系のサービスを立ち上げなければ」と考えているような状態だったらと思うと、ぞっとします。
最近は新しい分野にも進出しています。子供向けの「手洗い練習スタンプ おててポン」はその1つです。通常、ハンコは印をつけることが目的ですが、これは消すことを前提にした商品です。
手のひらに「ばいきん」マークを押し、印影がきれいに消えるまで石けんでしっかり手を洗う。楽しみながら手洗いの練習ができるというわけです。これは16年に発売した商品ですが、新型コロナの影響で、前年に比べ約20倍の出荷数となっています。
当社はハンコ屋ではなく、インクやゴムの素材メーカーです。商品は金型から自前で作り、インクやゴムに関しても独自の配合ノウハウがあります。パソコン決裁で使用している文字は自社製のシヤチハタフォントです。こうした当社ならではの技術を生かし、これからも画期的な商品を生み出していきたいと思っています。
経営者でいる限り、心配し続けなければならないのでしょう。一生安泰というのはどんな企業でも土台無理な話なのです。
(この記事は、「日経トップリーダー」2020年12月号の記事を基に構成しました)
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