少しお恥ずかしいのですが、私自身の若いときの経験をお話ししたいと思います。

 先ほども述べましたように、京セラは、昭和34年に、資本金300万円、従業員28人、間借りの社屋という、まさに中小零細企業から始まった会社でした。それが創業から半世紀ほどが経過した現在では、売上は1兆5000億円を超える規模に達し、従業員は全世界で約7万人を擁するまでに成長しています。

 この間、経営のかじ取りを担ってきましたが、実は創業したときから、自分が果たして経営をしていけるだけの人間なのかどうか、不安で仕方がありませんでした。自分が経営者として適任なのかどうか、自信などなかったどころか、疑問さえ持っていました。

 専門の化学は大学4年間を通じ、よく勉強したとは思うものの、また社会へ出てからも研究部門で相応の力を発揮したとは思っていましたが、何せ鹿児島弁しか話せない田舎者でした。たとえば、社会に出てしばらくは、標準語で応答しなければならない電話を恐れていました。そばの電話が鳴ろうものなら、誰かに出てもらい、胸をなで下ろすといったくらい、頼りない田舎出の青年でしかなかったのです。

 ですから、自分が企業経営のかじ取りができるなどという自信は毛頭ありませんでした。たまたま、私の技術をベースに会社をつくっていただくことになり、私が経営に当たらざるを得なくなっただけのことです。

 しかし、いざそのような立場になってしまえば、経営者である自分が下手をすれば、会社を潰してしまうことになります。また、私の技術を信用し、資本金300万円を出資してくださった方々、とりわけ自宅を担保に銀行から1000万円を借りていただき、運転資金を提供いただいた方の厚意に報いることができないどころか、大変な迷惑をおかけすることになります。

 さらには、27歳の青年でしかない私を信頼して、自分の人生をかけてついてきてくれた7人の仲間たち、また人生に明るい希望を抱く、中学を卒業したばかりの20人の幼い社員たちを路頭に迷わせることになってしまいます。「何としても、この会社を潰してはならない、何としてもこの事業を成功させなければならない」、私の頭はもうその一念だけでした。

 また、もともと私は、父親譲りの大変な恐がりで、いわゆる「ビビり」な性質(たち)な上に、義理堅いところがあるのか、借金を極度に恐れていました。とにかく早く借金を返さなければならない、絶対に潰れない会社にしなければならない、そうすることで、何としても従業員を守っていかなければならないと、毎日そのことだけを強く思っていました。

 それはその後、会社が順調に成長発展し、立派になっていったときも変わることはありませんでした。高収益を続け、財務内容も素晴らしいものとなり、東証上場を果たしてからも、会社の将来が心配で心配でたまりません。私は現在85歳ですが、そんな思いは京セラを創業した27歳のときから、基本的にずっと変わることはありません。

 実際、京セラを創業してから今日まで、経営環境は、決して「順風」なときばかりではありませんでした。ニクソン・ショックによる円の変動相場制への移行に始まり、オイルショックによる急激な受注減少、プラザ合意による大幅な円高移行、半導体分野における熾烈な日米貿易摩擦の影響、そしてバブル崩壊後の長い景気低迷、さらにはITバブルや近年のリーマン・ショックなど、様々な経済変動の波をまともに受けてきました。そして、そのような次々に襲い来る経済変動の中で、多くの企業が赤字に陥り、衰退し、淘汰されていきました。

 しかし京セラは、そういう度重なる経済変動という試練に遭遇しても、創業以来今日まで、通期で赤字決算になったことは一度もありません。そうした堅実な歩みも、もともとは経営者である私の小心さ、心配性に端を発するものです。そのような私の性格ゆえに、いかなる経済変動にも耐え得るだけの盤石な経営基盤を構築することができたのです。

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