独占インタビュー ワタベウェディング元会長・渡部隆夫氏
ワタベウェディング元会長「事業承継の失敗が、私的整理の遠因です」
ブライダル大手、ワタベウェディングが私的整理に入ることを発表した。発表翌日の3月20日、同社の元会長、渡部隆夫氏に話を聞いた。口にしたのは、新型コロナの影響に隠された事業承継の問題だった。
(聞き手は日経トップリーダー編集長・北方雅人)
ワタベウェディングが私的整理をすることは知っていましたか。
わたべ・たかお
1941年生まれ。高校卒業後、東京の貸衣装店勤務を経て、京都で両親が創業したワタベ衣装店(現在のワタベウェディング)に勤務。78年に社長就任。2008年会長。12年相談役。その後退任
渡部:いえ、全く知りませんでした。私は会社を離れて13年がたちますし、会長になった2008年以降、経営には一切口を出していません。それどころか会社の敷居をまたいだこともない。会長といっても名ばかりで、代表権もありませんでしたから。
海外ウェディングの生みの親で、ワタベウェディングの中興の祖でもあるのに、会社との関わりは一切なかったのですか。
渡部:ええ。気にはなりますから決算は見ていましたが、この夏を乗り越えるのは厳しいだろうなと思っていました。新型コロナ禍に伴い、主力の海外挙式が実質ゼロになっていますからね。
ただ、やりようはいくらでもあったはずです。そもそも、いまだに海外ウェディングを事業の柱にしているのが理解できません。私がハワイに支店を出してから50年近くがたつのです。「会社の寿命は30年」だというのに、どうしてそんな昔の事業が今も中心なんですか。海外挙式が事業から消えていてもいいくらいなのに、新しい戦略構築をしてこなかった。
私が社長をしていた頃は、売上高が550億円ありました。長男の渡部秀敏に代わってから100億円下がり、その後はほぼ横ばいの状態です。合理化と称して人員削減などで経費を削って、わずかな利益を出すだけ。経費を削れば、次の戦略構築に支障を来すのです。完全に悪循環に入っていた。コロナがやって来なくても、いつか潰れると思っていました。
新型コロナ禍で業績は大幅ダウン
※決算期変更に伴い、前年同一期間(2019年1月~12月)との比較
社内では新しい事業を立ち上げようとしていたかもしれませんが、渡部さんは厳しく見ていた。
渡部:大きな環境変化は過去に何度もありました。01年の米国同時多発テロのとき、海外ウェディングの売り上げは全体の68%でしたが、秋の挙式は全滅です。それまで海外事業に注力してきましたが、急いで営業戦略を大転換し、沖縄の挙式事業を立ち上げました。
ありとあらゆる手を打ったらその年は増収増益でした。ほかにもSARS(重症急性呼吸器症候群)など、会社の危機は何度もあった。普段ならごちゃごちゃ言っている社員がいても、会社が危機のときはベクトルがそろうのです。
アメーバ経営もやめた
本社のある京都市内には、ワタベウェディングの店舗がいくつもある
そもそも13年前、なぜ秀敏さんと交代をしたのですか。
渡部:私は20歳の頃から、母親に実印を持たされ、実質的に経営を切り盛りしてきました。そして37歳で社長に就きます。以来、30年間の社長時代、年率15%ペースで売り上げを伸ばしてきました。15%なら5年で2倍になるので、資金調達や人材採用の計画を立てやすいということもあります。
でも、いつまでも社長を務めるわけにもいかない。稲盛和夫さんが主宰する「盛和塾」に入っていたので、「来年、社長在任30年を迎えるのですが、息子と交代したほうがいいでしょうか」と稲盛塾長に相談したのです。そうしたら、「息子に譲れ」と。しかも「二頭馬車になって、おやじの顔色を見ながら経営をするのはいかん。何かあったら俺が息子に経営を教えるから完全に引け」と。そこまで言われたら仕方ないなと。
秀敏さんは当時41歳。若いうちに後進にバトンタッチし、経験を積ませたほうがいいという稲盛さんの考えは理解できます。
渡部:それは息子に経営能力があるという前提でのことですね。ただ、尊敬する稲盛塾長がそう言うのですから、従いました。グループの目黒雅叙園やメルパルクなどの社長は私が続けることにして、ワタベウェディングは秀敏に任せました。
ただ、社長になった秀敏は1年くらいすると、アメーバ経営による収益管理をあまりしなくなった。これは稲盛塾長から教えてもらった小集団別の採算管理手法で、各部門の収益が素早く、手に取るように分かるから、私は頼りにしていました。それが、次第に細かな収益意識が薄れてしまったようです。
私が「右だ」と言うと、左に行く男です。私の経営は間違っていたと否定したかったのでしょう。私と顔を会わせたくないからか、営業本部を東京に設置するという名のもとに、京都にはほとんどいなくなりました。
子が親の経営を否定するのはオーナー企業では珍しくありません。もしかしたら、秀敏さんのほうからすれば、彼なりの考えがあったのかもしれません。
渡部:息子に継がせることしか頭になかったことが間違いのもとでした。(ワタベウェディングの前身である)ワタベ衣装店を創業した私の母は、徳川綱吉の時代から12代続く扇子屋の娘です。母はそのことを誇りにしていました。
京都の会社は、長く続けることを一番の目的にしなさいと言われ、近所で店をたたむ人がいると「こんなことをしたら潰れるんだよ」と教えられました。「家を守ることを念頭に経営する」という考えは、私の中にも刻まれました。
ワタベウェディングが12代も続くかどうかはともかく、2代目の私がやるべきことは、息子を経営者にし、家を守っていくことだと考えていた。株式上場企業なのに、家業を引きずっていたのです。
上場しなければよかったという見方もありますが、上場しないと15%成長はできない。銀行からの資金調達では無理がありますから。それに借り入れの個人保証が20億~30億円ほどありましたから、それも不安でした。
後継者に関しては「渡部家」のことしか考えておらず、秀敏自身もいずれは跡取りという認識はもちろんあったはずです。今から思えばそこが最大のミスです。
秀敏には稲盛塾長の哲学を学ばせるため、第二電電(現KDDI)で3年間修業させた後、ワタベウェディングに入れました。その後はオーストラリアなど海外の小さな子会社に送り、マネジメントの勉強をしてもらいました。
日本に戻してからは、秀敏が失敗しないように、親心から優秀な社員を秀敏に付けましたが、かえってそれが失敗で、能力を正しく見定めることができなかった。私の手元に置いて、経営を教えればよかったと後悔しています。
持ち株を譲り過ぎた
親子の方針が割れて対立することはあっても、渡部さんのように会社に出入りしなくなるところまで至ることは多くない。困ったときには相談に乗ってあげるような関係性があればよかった。
渡部:当時、京都の本社ビルの8階に持ち株会社のフロアがありましたのでそこは使っていましたが、7階より下には一切足を踏み入れませんでした。口を出さないと決めましたし、秀敏からも歓迎していない空気は感じましたから。
持ち株はどうしたのですか。
渡部:上場前、ある経営コンサルタントから「上場すると資産額が跳ね上がる。早くから準備をしないと、渡部さんにもしものことがあったら相続税などが大変なことになりますよ」とアドバイスされ、持ち株会社の株式を毎年、息子に生前贈与していました。
持ち株比率が50%を切って、25%になったとき、経営権はどうなるのかなと頭をよぎったのですが、まあ、息子相手のことだから、ややこしいことにはならんやろうと、高をくくっていました。
でも、社長交代してからしばらくしたとき、秀敏から「俺の会社や」と宣言されました。私の発言権を否定されたわけですから、もう持っていても仕方がないと、残りの持ち株を買い取らせました。
目黒雅叙園やメルパルクの社長はどうしたのですか。
渡部:それも秀敏の意向で早々に辞めました。「日経トップリーダー」の読者はオーナー経営者が多いのですよね。息子といえども他人さんだから、持ち株は経営権を維持できる51%以上を死守してくださいとぜひ言いたい。
49%までは後継者に譲っていいけれど、それ以上はだめです。コンサルタントにそそのかされようが、その一線は絶対に越えてはいけない。結局のところ、今回、ワタベウェディングの経営が行き詰まってしまった遠因は、私の事業承継のまずさにあるのです。
私は弟2人と会社を大きくしてきました。けれど最近は業績が低迷し、恥ずかしかった。意見も言えない。自分の名前を変えることはできませんから、社名から「ワタベ」を外してもらうように頼んでみようかと、少し前に、弟たちと話していたくらいです。
株式会社化からちょうど50年目
ワタベウェディングの歴史
(この記事は、「日経トップリーダー」2021年4月号の記事を基に構成しました)
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