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現在も全国の百貨店やアウトレットに100店舗以上を展開する、和食器販売のたち吉。創業200年を超える老舗だが、その経営権は2015年、創業家の手を離れ、投資ファンドに移った。創業家出身の最後の経営者、岡田高幸氏が、事業譲渡に至る詳細な経緯と複雑な胸の内を明かす。業績悪化からリストラ断行、それゆえに膨らんだ金融債務。銀行の支援を得るため、2度にわたって再生計画を立てるも、相次ぐ「計画未達」に自主再生を断念。外部資本への“身売り”を決意する──。経営のリアルな教訓を伝える独白。

幼少時の岡田高幸氏。当時、たち吉の社長だった祖父に「社長の椅子」に座らされて記念撮影

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傾きゆく家業に入って

 早稲田大学商学部を卒業後、僕がたち吉に入った2001年には、会社の業績不振ははた目にも明白でした。

 初めて早期退職を募集したのが、1999年3月期。入社直前の2001年3月期には、2回目の早期退職の募集がありました。

 入社するとき「年下の従兄妹たちを会社に入れないでほしい」と、父に頼みました。上の世代で内輪もめした話も聞いていましたし、業績が悪化している会社にわざわざ入ってもらうこともないだろうと思ったのです。

 入社後、最初の3年間は、東京・日本橋の三越さんで販売員。その後6年半は、東京・宝町の事務所で法人営業をしました。その間にも早期退職募集が続き、ボーナスは出たり出なかったりで、出ても一律5万円といった具合です。当時は一介の平社員でしたが、しんどい状況はひしひしと伝わってきました。

 09年秋、京都に転勤しました。京都の会社の跡取りでしたが、東京生まれの東京育ち。勤務地もずっと東京でした。32歳で初めての京都暮らし。幼い子供と妻を連れて引っ越しました。

 京都では、経理・財務の仕事に就き、係長になりました。初めて経営数値を見ながら、金融機関と対峙する立場に立ちました。

 たち吉は当時、金融機関から事業計画の策定を求められていました。業績が悪化しているところに、借入金の負担が重く、金融支援をお願いしていたからです。

 金融機関にしてみれば、支援するからには、返済を担保する事業計画を策定してほしい。それも、第三者のチェックを経た実現可能性が高い事業計画が求められます。そこでチェックする第三者として、金融機関はコンサルティング会社を僕たちに紹介します。

 たち吉に最初にやってきたコンサルティング会社は、当時、融資額が一番多かったメガバンクが推薦したX社。外資系の大手コンサルティング会社です。

 そんなX社とたち吉の現場をつなぐのが、京都に赴任した僕に与えられた仕事でした。経営企画担当の部長の下に付いて、コンサルティング会社が求める資料を提出するよう、社内の該当部署にお願いしたり、計画の進捗を確認する会議を招集したりしていました。

 コンサルティング会社からは5人前後のチームが京都にやってきて、ホテルに宿泊しながら、2、3カ月かけていろいろと調査し、僕らと一緒に事業計画策定に取り組みます。驚いたのは、そのチームを動かすのにかかる数千万円のコストが、たち吉の負担だったことです。考えてみれば当たり前ですが、金融機関に支援を継続してもらうためには、新たな投資も必要ということです。

百貨店市場と足並みを揃えた成長と衰退
※ 百貨店販売額は経済産業省「商業動態統計」から
たち吉の業績推移のうち、1989年度は決算期変更による減収減益