マンダムと森永製菓で合計約30年にわたり新興国事業の責任者や本社の海外担当責任者を務めた山下充洋氏の体験を通じて、企業の海外進出について指南する本連載。実践編の第10回はインド編。海外戦略を推進しドバイ進出に成功後、次のターゲットをインドに。鍵となるのはドバイで信頼関係を構築した印僑パートナーだった。筆者が考えた新しい進出方法とは?
イスラム建築の至宝ともいわれるタージ・マハル。皇帝シャー・ジャハンが、王妃ムムターズ・マハルの死を悼み17年とも21年ともいわれる長い歳月をかけて建築した(写真:PIXTA)
イスラム建築の至宝ともいわれるタージ・マハル。皇帝シャー・ジャハンが、王妃ムムターズ・マハルの死を悼み17年とも21年ともいわれる長い歳月をかけて建築した(写真:PIXTA)

第2のインドネシアを目指してインド市場攻略に着手

 前回、ドバイで信頼できる印僑パートナーを見つけることができたことで、ギャツビーはドバイから世界約110カ国へと再輸出できるようになったことをお話ししました。生産工場を持つマンダムのアジア最大拠点であるインドネシアの国内戦略とドバイ経由の海外戦略が軌道に乗ったことで、私は2003年ごろには完全に自分の組織として、各部署の機能や実力を掌握しました。

 その頃、私は次の進出先をインドにしたいと考えていました。シンガポール、マレーシアをはじめタイからインドシナ各国をカバーし、インドネシアと中国に製造拠点を集約、アジア諸国に多くの拠点を設けていました。しかし、膨大な人口を擁し需要の大きなインドにはまだ展開していませんでした。当時の中国は、化粧品や医薬品などの処方開示を求められ、技術や処方が盗まれるリスクもあり、まだ本格投資に躊躇(ちゅうちょ)する時代でした。また、中国は本社の管轄でもあったため、ドバイで印僑のパートナーを得たことからも次はインドと決め、調査を始めました。

 今日マンダムが、東南アジアで認知度やブランド力、売り上げ共に世界的な大手と渡り合えているのは、1958年にフィリピンに進出、1969年にインドネシアに合弁会社を設立するなど、いち早く海外に進出をしていたからです。私がインドネシアに勤務していた当時のインドは、多くの日本企業が進出したくてもなかなか手が出せなかった国でした。「インドに今から進出すれば、20年後には今のインドネシアのようにできる。インドを一から手掛けたい!」。そういう思いを持っていました。

故郷インドに錦を飾るとともに

 インド進出のきっかけとなったのはドバイの印僑パートナーの存在でした。現地の代理店のオーナーはインドからドバイへ来て商売をしている創業1代目。「年を取ったので、ドバイでのビジネスを息子たちに任せ、自分はそろそろインドに帰りたい」と相談を受けました。本業のほかに不動産など手広く資産運用をしていて、先祖代々の資産もあり、働かなくとも悠々自適の生活ができるのですが、そこは根っからの商売人。息子たちにドバイの事業を残して、自分はビジネスの最後の仕上げとして、インドに事業を持って帰り、故郷に錦を飾りたいと考えていました。

巨大なマーケットとポテンシャルを秘めたインド市場に着目。印僑パートナーと共にインド市場の開拓に乗り出した(写真:123RF)
巨大なマーケットとポテンシャルを秘めたインド市場に着目。印僑パートナーと共にインド市場の開拓に乗り出した(写真:123RF)

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