複雑きわまりない中東情勢のなか、印僑の持つネットワークとその情報量には驚くべきものがあった(写真:123)
複雑きわまりない中東情勢のなか、印僑の持つネットワークとその情報量には驚くべきものがあった(写真:123)

 他には2003年末に核を含む大量破壊兵器の放棄を宣言、アメリカによる経済封鎖が解かれた当時のリビア。この時も「リビアの市場が開くからコンテナ3本ぐらい急きょ優先で出してほしい」と連絡が入りました。私は「(当時最高指導者だった)カダフィ大佐はまだまだ元気だし、そんなすぐには無理だろう」と思っていたのですが、彼らは「1カ月ぐらいで絶対に開く、アメリカ製品をすぐに入れるのは難しいけれど、外国製を入れるルートがあるから日本ブランドでインドネシア製のものだったら大丈夫だ。用意しておいてほしい」。結果はその通りとなりました。

 2003年のイラク戦争の際も同様でした。このときもいつ戦闘が終結し、いつ市場が開くかどうかも分からない状況下で大量の発注がありました。「この時期に、こんな大量の商品を誰が買い取るのか、大丈夫か?」と不安を訴えましたが、彼らは「開くと同時に商品を国連に全品買い取らせるから取りっぱぐれはない(笑)」。なんとも恐るべき商売人です。

インドネシア人従業員に「世界企業になれる」という実感と誇りを

 ドバイで素晴らしい印僑パートナーと組めたおかげで、流通網の構築もうまくいき、ギャツビーはドバイから約110カ国に再輸出されていきました。取引量もタイやマレーシア向けを超え、私の赴任期間中には20フィートコンテナをほぼ毎日1~2本、年間で300本以上の量を輸出するようになっていました。

 「ローカルナンバーワン企業から世界ナンバーワン企業へ」という目標を掲げたのは、為替ヘッジのためということも大きな理由ですが、私の中ではもう1つの目的として、インドネシア人の従業員に、日本向け品質管理の厳しさや世界で競争するためのコストダウンの厳しさを理解してもらうことで意識を変えたいという思いがありました。それはインドネシア国内のスタンダードを上げることにもつながるからです。

 また「自分たちも戦略を持って努力をすれば世界企業になれるのだ!」という誇りを持たせたかったというのもあります。日系企業ではありますが、このドバイでの経験でマンダム・インドネシアという企業が世界に向けて発信できたこと、従業員にその夢を見せてあげられたことは私にとって真の喜びです。

(構成:鈴木素子、編集:日経BP総研 中堅・中小企業経営センター)

著者/山下充洋(やました・みつひろ)
1964年生まれ。87年にマンダム入社。2001年マンダムインドネシア社長就任。08年マンダム執行役員、国際事業部担当兼国際事業部長就任。12年にマンダム退社後、同年森永製菓入社。森永製菓執行役員海外事業部担当。15年6月、森永製菓取締役上席執行役員 海外事業本部担当兼海外事業本部長。18年3月末森永製菓を退社し、同年6月から日経BP総研 中堅・中小企業経営センター 客員研究員。