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マンダムと森永製菓で合計約30年にわたり新興国事業の責任者や本社の海外担当責任者を務めた山下充洋氏の体験を通じて、企業の海外進出について指南する本連載。第7回はインドネシア編。赴任してみると、通貨危機の爪痕が残り経営にも影響があったが、それ以上に社内の体質に大きな課題が。民主化への道を踏み出した同国でとるべき戦略とは? 国際化のための体質改善、体制の構築、社員の意識改革、新しい文化の創造……。どのように新体制の経営方針を打ち立てていったのか。

インドネシアの首都・ジャカルタ。ジョコ大統領はカリマンタン(ボルネオ)島の東カリマンタン州への首都移転構想を発表。2024年には行政機能の移転を開始する考えだ(写真:123RF)

経営を任された喜びと現実

 経営難に陥ったタイ合弁会社の再建と通貨危機を乗り越えることに奮闘して2年半。なんとか事業のめどがついたため1999年6月末にタイを離れることになりました。当時私は35歳。入社2年目で海外に赴任して11年がたっていました。次の勤務地はジャカルタにある合弁会社、当時はまだ名前が丹頂インドネシア。またまた海外から海外への異動でした。

 「一度日本に戻りたい」という願いはまたしてもかないませんでしたが、マンダムではインドネシアの合弁会社は開発部門も生産工場も有する、いわば流通開発からマーケティングまでメーカー機能のすべてを一貫してできる最大拠点でした。自分の経営思想に基づいてやりたかったこと、面白いことが完結できる勤務地です。

 私は入社前の内定段階の大学4年の2月に、友人とバリ島に卒業旅行に行きました。バックの中にスーツとネクタイと革靴を忍ばせ、途中で単身ジャカルタに向かい、挨拶と工場見学に訪れました。インドネシアは「いつかここで暴れてやるぞ!」と夢と未来図を描いていた場所でもありました。そのインドネシアのトップになることを前提とした赴任ですから喜びと同時に身が引きしまる思い、そして一抹の不安を持っての着任でした。

 当時のインドネシア法人の社長は本社副社長が兼任していたので、着任当初は特に業務を持たない立場に置いてもらい、2000年5月に副社長/COO(最高執行責任者)、2001年5月に社長/CEO(最高経営責任者)に就任しました。社名もマンダム・インドネシアに変更し、2008年5月に退任するまでの9年間にわたり陣頭指揮をとりました。

 私が喜々としてジャカルタに着任した直後、そこに歓迎ムードは正直ありませんでした。インドネシアには役員・幹部クラスに数人の日本人出向者がおり、社歴もインドネシア駐在歴も私より長く、在任10年を超える駐在員もいました。

 お互いに戦々恐々です。他国は知っていてもインドネシアはそんなに甘くない。また現地パートナーからも、聞いてなかった、納得できない、などなどの声。私も複雑な心境でお互い「まずはお手並み拝見」という雰囲気でのスタートでした。インドネシアは世界最多1万4000以上もの島々から構成され、東西の長さは北米大陸がすっぽり入るほど、非常に領域の広い国で、地政学的にもアジアの要衝として大きな存在感を持つ国です。

 確かにインドネシアについては言葉も覚えていないし、独特の文化も分かっていません。しばらくは業務執行に口出しせず、まずはインドネシア語の習得と会社の現状、課題、そして将来やるべきこと、目指すべき方向、などを考えながら広大なインドネシアに点在する拠点へ毎週のように出張し、現地の流通パートナーや営業拠点の幹部社員、現地の卸売問屋さんとの人間関係の構築と市場や生活者に関する情報収集に徹しました。