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 このように当初は、問屋流通に変更し、生産効率の改善で工場は維持する方針で経営改革に着手しはじめた、ちょうどその時、1997年7月2日。予想もしなかった出来事が突然襲ってきました。それがタイの為替制度変更をきっかけに始まったアジア通貨危機でした。

 あっという間にバーツは暴落、1時間ごとにバーツがバタバタと坂道を転がり落ちるように下がり、輸出は緊急停止、経済は停滞、タイの企業にはあちこちで出社停止や解雇の波が襲いました。まさにみるみるうちに街に失業者があふれかえり、渋滞で有名なバンコクの目抜き通り「スクンビット通り」の車が減りガラガラになるという、尋常ならざる事態になっていきました。当然、代理店側も全営業スタッフを引きとるとか、そんな状況ではなくなってしまいました。

 また何より大変だったのが借金の返済でした。ドル建てで借りていたため、バーツの大暴落で日に日に借金が膨らんでいき、その分評価損が出てきます。売り上げは下がるし評価損は増える、もうにっちもさっちもいかなくなり、もともと稼働率の低かった工場はさらに重荷となっていきました。

タイから始まったアジア通貨危機の影響はあまりにも大きく、工場の閉鎖を余儀なくされた(写真:123RF)

 この状況で経営責任者は何を考えるべきか? 何をすべきか? 何を根拠にするべきか? 日々もんもんと考える毎日でした。追加の再投資を実施したばかりで、その責任をどう取るか……。苦悶(くもん)の日々を過ごす中で、数千万人のタイ人がいる限りこの市場は存在し続けるはず。この市場の地政学的優位性は変わらない。我々の資産は「現地の流通網」である。ここで引いたら現地の従業員は今後我々を絶対信用しない。現地の生活者に「お役立ち」をするために我々はここに来た。戻るべき理念は「お役立ち」である。ならば何としても生き残ることを優先させる。この嵐が過ぎるまで身を低くして耐える。当時の手帳にはこんなことが書かれています。最終的に工場を閉鎖し、約150人の生産会社の全従業員を解雇、インドネシア生産に切り替え、問屋流通への転換、販売会社のリストラなどを決めました。タイでマンダムが生き残るために何としても残さなければならない「流通網」を守るため、それ以外の全てを犠牲にする判断を下したのです。

タイの事業が苦戦した根本原因

 タイの工場閉鎖はアジア通貨危機と重ならなければ必要なかったのか? もっと早期に企業再建ができたのか? それとも同じ運命だったのか……。今となっては分かりませんが、アジア通貨危機前に着任、再建に着手した当初は、雇用に手をつけることは想像にもなかったことでした。

 タイの工場はタイ国内を中心にインドシナ4カ国への供給拠点であり、マレーシアなどにあった技術提携していた工場を閉鎖して集約したものでした。当時ロレアルやユニリーバなど化粧品・トイレタリー業界ではヨーロッパを中心に工場の再編が盛んに行われており、経済のボーダーレス化に従って大量生産によるコストダウンが目的でした。マンダムもこの潮流に乗って海外工場の再編を実行したのですが、ここで1つボタンの掛け違いを犯してしまいました。それはまだタイ国内の流通網が未整備な状態で、インドシナ4カ国に至っては流通網が出来上がる前に、工場を建ててしまったことです。

 主要業態・店舗への商品導入の完了→各国現地流通網の構築→シンボル商品の確立→商品ラインナップ強化→ブランド定着→安定的な販売実績(数量)の確保→最低販売数量≧最低経済生産量→工場建設、これが基本のセオリーですが、この最低販売数量が最低経済生産量を上回らないうちに工場を建設したため、計画していた数量を生産できない→工場の稼働率が上がらない→減価償却をカバーできない→原材料の購入量縮小→コスト上昇→売っても利益が出ない→赤字が膨らむ、という悪循環に陥ってしまいました。