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「思春期の反抗」を経て

 「昔はこうだったとか、20年前のシンガポールはこうだったとかいろいろ言いますけど、この10年だってこれだけ時代が変わっているのに何を言っているんですか。そんな何十年も前のことなんか知らないし、関係ない。何のために私がここに24時間張り付いて、シンガポールとマレーシアの今の空気を吸って、水を飲んで生活していると思ってるんですか? 毎晩現地の人間と飯食って、酒を飲んで、人脈を作っているのは何のためだと思っているんですか? これだけ現地で根付いている人間の情報よりも、昔の話で物事を判断するというのなら、私がここにいる意味はありません。とっとと帰りますし、全て判断してください。現地の従業員にFAXで指示してやらせますから」


(写真はイメージ:写真123RF)

 シンガポール・マレーシア時代に、私は一度だけ会食の席で、当時の専務(後の副社長)に本気で盾突いたことがありました。確か赴任して2年目が過ぎ、毎月1000本ノックで鍛えられて少しずつ信頼を得られてきた頃でした。当時の専務の名代として別の国に問題解決のために飛んだりするようにもなっていましたが、それでも本音ではまだ私のことを「小僧」だと思っていたのか「昔はこうだった」というような話を毎回延々とされました。私の方は、戦略の立て方や財務知識が身に付き、合弁販社の株式持分比率も51%まで引き上げ、連結対象となり、ROE(自己資本利益率)やEVA(経済的付加価値)向上に奔走しているころで、「経営者」としての自覚や自信が付きはじめていました。鼻が高くなり、言ってみれば子供の成長過程で起こる「思春期の反抗」そのものでした。

 たんかを切った瞬間に周りはシーンとなり空気が張り詰めました。「やばい、言い過ぎたかっ……」と思いましたが、私も引くに引けず、灰皿が飛んでくるのを覚悟していた時、「よし、分かった。お前の言う通りかもしれんな。今のこの市場はお前が一番分かっているはずだしな」とその場をおさめてくれました。それ以来一切過去の話はしなくなり、「お前はどう思う?」「この市場ではどうしたらいいんだ?」と意見を求めてくれるようになりました。今思うと本当に懐の深いすごい人物だったと思います。もし今、私が部下に同じように言われたら、手が出るでしょう。

 このことをきっかけに私は少し大人になりました。こんなに度量の広い信頼すべき人に二度と恥をかかせてはいけないと改めて誓い、この人からの指示と依頼はどんなことがあってもやり遂げる。期待に応えようと思い、その後の信頼はさらに深まり、国際情勢の判断など以前よりも質の高い質問や相談を受けるようになりました。

 私のシンガポールとマレーシアでの勤務が終了したのは1996年末。シンガポールから数えると9年間の駐在勤務でした。振り返ってみると立ち上げた会社も軌道に乗り、それぞれの市場にあった事業構造が定着し、ローカルスタッフも育ち、自分も「大人」になっていった最後の1~2年が最も自信にあふれて、毎日が充実。業績も安定して、最も楽しかった、前途洋々の日々だったと思います。

私の海外事業はこの後もタイ、インドネシア、ドバイからインドへと続いていきます。

(構成:鈴木素子、編集:日経BP総研 中堅・中小企業経営センター

著者/山下充洋(やました・みつひろ)

1964年生まれ。87年にマンダム入社。2001年マンダムインドネシア社長就任。08年マンダム執行役員、国際事業部担当兼国際事業部長就任。12年にマンダム退社後、同年森永製菓入社。森永製菓執行役員海外事業部担当。15年6月、森永製菓取締役上席執行役員 海外事業本部担当兼海外事業本部長。18年3月末森永製菓を退社し、同年6月から日経BP総研 中堅・中小企業経営センター 客員研究員。