マンダムと森永製菓で合計約30年にわたり新興国事業の責任者や本社の海外担当責任者を務めた山下充洋氏が、企業の海外進出について指南する本連載。第4回目はマレーシア編。高度経済成長期で事業コストの上昇が激しいシンガポールでの収益を安定させる目的でしかけたマレーシアだが、同時に現在に至る「勝ちパターン」も構築した。著者の考えたビジネスモデルとは? 現在のアジア諸国展開にも参考となるポイントを解説する。
二兎を追ってマレーシアへ
1988年にシンガポールに駐在員事務所を立ち上げ「ギャツビー」を展開して3年。シンガポールの事業も軌道に乗りつつあると一息つきながら、他方高度経済成長による事業コストの上昇に不安を感じ始めました。足元では既に、人件費や運送費、事務所賃貸料、家賃などの事業コストが高騰しており、収益力や採算性が下がることが目に見えてきました。私は事業収益を安定させるために次の成長戦略を考え始めました。
シンガポールは東南アジアのショーウインドー的な存在です。周辺諸国はシンガポールで流行っているモノやコトを注目していますから、何としてもこの国でブランドの知名度や市場シェアを死守しなくてはなりません。

そこで目を付けたのが隣国マレーシアでした。マレーシアは人口もシンガポールより多く(当時シンガポール305万人、マレーシア1800万人)、物価は5~6割程度で、文化的な影響力やシンガポールとの関係性、物理的にも最適でした。マレーシアにシンガポール法人の子会社を作り、そこで得た利益を経営指導料や配当などでシンガポールに吸い上げて、シンガポールの宣伝販促費用を捻出することを考えました。
ちょうどマレーシアの首都・クアラルンプールには、出資したシンガポールの合弁会社が所有する休眠会社がありました。これを復活させ、1991年にシンガポールの子会社「ギャツビー・マレーシア(現マンダム・マレーシア)」として、販売拠点にしました。ここから私にとっての2カ国目となる海外展開が始まり、シンガポールとマレーシアの責任者として事業を並行して指揮していくことになりました。シンガポールの決算を締める月末から月初の1週間はシンガポール、それ以外はマレーシアに滞在という生活が始まりました。
毎月1州に1営業店と代理店を開設
マレーシアでの事業展開にあたり、大きな決断はシンガポールとは異なるビジネスモデルを構築することでした。当時のマレーシアは、「丹頂ブランド」のポマードやチックを販売していただけで、マーケティングなどは何もしていない状況でした。
マレーシアでもギャツビーの認知度がほぼ皆無という状況は、シンガポールに赴任した時と同じでしたが、軌道に乗りつつあったシンガポールと同じ戦略で良いのかというと、経営環境が異なるので当然そうではないと考えました。
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