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 化粧品メーカーのマンダムと菓子メーカーの森永製菓で合計約30年にわたり海外現地法人の責任者や本社の海外担当責任者を務めた山下充洋氏が、企業の海外進出を指南するこの連載。今回から「実践編」のスタートです。入社2年目、弱冠23歳でシンガポール現地法人の責任者となって以来、現地における売り上げを伸ばし、海外各地で連勝を続けた山下氏の実体験を通して、海外進出と経営における重要なポイントを解説していきます。実践編のスタートは山下氏の海外初任地である「シンガポール」から。

無名であることはチャンスだ!

 「山下君、実は人事異動なんだ。ちょっと遠いけどシンガポールに行ってもらうみたいなんだ……」

 化粧品メーカーのマンダムに1987年に新卒で入社、国内営業部で当時伸び盛りだった量販店の本部を担当させてもらい1年近くが過ぎた頃です。ようやく「2年生」になろうという私に、シンガポール駐在の内示があったのは1988年2月のことでした。シンガポールが台湾や香港などとともにまだ「NIES(新興工業経済群)」と呼ばれていた時代です。それが、約30年にわたる海外事業とのつきあいの始まりでした。

 当時のマンダムは、1970年代後半の国内の流通再編を終え、店頭公開(1988年11月)を果たそうかという時期(その後、東証1部上場)。それまでマンダムの海外展開は、戦前から主力商品だった整髪料「丹頂ポマード」「丹頂チック」の輸出や、現地の提携先へ生産技術を提供することによるロイヤルティー収入が主流で、みずから海外で営業やマーケティングを展開しているのはインドネシアのみという時代でした。

 日本でヒット中の主力男性化粧品ブランド「ギャツビー(GATSBY)」 を本格的にアジアで展開していこうという方針を具現化するため、アジア展開のハブとなるシンガポールから海外事業をスタートすることになり、23歳の若手だった私が1人で現地に赴任することになりました。

1990年代のシンガポール(写真:PIXTA)

 シンガポールに着任して私がまず行ったのは、駐在員事務所開設のための銀行口座の開設や会社登記などの設立手続きでした。そしてもう1つは、資本出資した(その後、全株式を買収し100%子会社となる)現地販売代理店のマーケティング・ディレクターとして、同代理店の営業部隊を率いて市場開拓を開始することでした。

 この当時の私は、シンガポール駐在員事務所の所長の立場と、現地の出資先販社におけるマンダムの利益代表の立場という2つの「キャップ(帽子)」をかぶることになったのです。そして「アジアのショーウインドー」であるシンガポールから、アジア市場をどのように攻めていくかを考えることが自分に与えられたミッションとなりました。

 シンガポールにおいてはまだ、「丹頂ポマード」を問屋を経由して小売店で販売するのが、主力の販売チャネルでした。小規模の個人商店──いわゆる「パパ・ママ・ショップ」が消費者との主な接点です。そこで、問屋や小売店を訪問して、「初めまして、マンダムの山下です」と着任の挨拶をしていったのですが、名刺に印刷した文字のスペルから「マンドム?」「何屋さん?」と、問屋の担当者や小売店の店主から必ず尋ねられました。「日本の化粧品屋です!」と返すと、「ブランドは?」と聞かれ、商品を見せると「ガッツバイ?」と発音される始末……。日本市場におけるナンバーワン男性化粧品「GATSBY(ギャツビー)」も、当時のシンガポールでは知名度ゼロでした。

 本格展開を開始したばかりとはいえ、国内営業の新人1年目でも経験したことのない衝撃の体験でした。日本でどんなに売れているブランドでも、海外に出ればまったくの無名という現実に直面しました。

 数日前に当時の上司や先輩、会社の同期、そして家族の見送りを受けて勇躍、成田空港を飛び立った光景を思い出すと、しっぽを巻いて帰るわけにもいかず、先行きに不安を覚えました。でも、考えてみると「知名度ゼロからの立ち上げ経験など、23歳の若造には日本では絶対できない経験ではないか」「この状況はひょっとしてラッキーなのかも」という思いに変わりました。「ダメでもともとだし、失う物は何もない!」と吹っ切りました。

 そのように発想を切り替え腹をくくった後は、頭の中に成功のイメージしかありませんでした。若かったですし、守るものなど何もなかったため、ただ前に向かって全力疾走、やれることは全部やる。ただ成功を信じて、目の前の課題解決と目的に向かって走ることしか考えませんでした。