1888年創業で、もともと農具を作っていたそうですね。
加藤:おかげさまで2018年に創業130周年を迎えました。曽祖父が創業し、私は4代目です。創業期は中津川には工業がありませんでしたから、農家向けに「くわ」や「すき」を作っていました。本家は瓦を焼いていて、そのルーツは愛知県の瀬戸の陶祖にもつながるそうです。根っからの職人肌の家系なんだろうと思います。
そのうち、名古屋から中津川まで国鉄が通じて、当社でも国鉄の仕事を受けるようになります。木曽川水系での電力事業も始まり、電力の仕事もするようになりました。水とエネルギーを利用しようと現在の王子製紙も移ってきて、製紙工場の仕事も手掛けていました。
中津川はもともと中山道の宿場町でしたから、交通の要所でもありました。そこに電力や工業の仕事もできて、そのおかげで当社の母体である加藤鉄工所のものづくりが始まったという経緯です。

株式会社加藤製作所代表取締役社長。1961年岐阜県中津川市生まれ。愛知工業大学卒業後、3社を経て加藤製作所(岐阜県中津川市、売上高約15億円。グループ会社にカトービルサービス、加藤鉄工)入社。2004年から現職。明治時代に農具製作の鍛冶屋を始めた創業者から数えて4代目。正月には、創業者が始めた御神刀の製作を執り行い、社内にある神棚に奉納する。子供の頃から毎年この行事を見ていて、いつかは自分がするのだと考えていたため、事業承継も自然だったという(写真:おおさき こーへい)
価格競争で決まる仕事は受けない
戦時中には、町の人たちが誘致して、総合電機メーカーの名古屋工場の疎開工場が建てられました。当社はこの関連の仕事も手掛けることになり、扇風機のガードやファンヒーターなどに使う部材のプレス板金や組み立てなどから、エレベーターの部品製作、メンテナンスと数多くの業務をこなしてきました。ここの100%協力会社だった時期もありました。
今では、50数社のお客様と取引しています。ただ当社には、商品を開発設計し販売するという一貫した事業ができる力はありませんので、私たちの加工技術でお客様にご愛顧いただくという受託の仕事を続けてきました。そこは変わりません。
私たちのような受託型企業は、どうやってお客様に価値を認め続けてもらうのか、そこが重要です。『下町ロケット』の世界ですね。下町ロケットでは、帝国重工のロケット用部品を佃製作所が作りますが、当社も航空機メーカーと、ボーイング787やMRJ(三菱リージョナルジェット)の部品で取引をさせてもらうようになりました。
“加藤製作所にならできる”ものがあるということですね。
加藤:そこに強みを見いだして、特化していくことにもっと力を入れていきます。まさに今年のスローガンは「強みを強くする」ですが、そもそも当社の強みは何かを改めて見極めて、ニッチな技術分野で磨き上げていく。当社のような企業が勝ち残っていく手はこれしかないとみています。
どこでも加工できる製品だと価格勝負になります。価格競争の土俵には上がらず、価格のイニシアチブを私たちが持てるようにするには、加工技術のレベルを常に上げつつ、顧客に評価してもらう必要があるのです。
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