2度の震災と、オリンピック招致がそれぞれキャリアの転換点になったという、書家にしてプレゼンテーションの名手、前田鎌利さん。少し変わった生い立ちに端を発する両親への思い、通信業界への思い、そして書に傾ける情熱。それらを折々の体験の中で昇華し、人生を切り開いてきた。
もしかしたら私たちも、新型コロナウイルスに翻弄される今を、自分を見つめ直し、何かを変えるきっかけにできるのかもしれない。そんな気持ちにさせてくれるインタビューの後編。
インタビュアーは、作家の井上篤夫さん。井上さんの近著『孫正義 事業家の精神』刊行を記念した対談企画。(前編はこちら)
井上篤夫(以下、井上):鎌利さんのキャリアの分岐点は、まず1995年の阪神大震災。いわゆる「1・17」ですね。
前田鎌利(以下、鎌利):はい。福井県出身の僕は当時、東京にいて、教職を目指す大学生でした。書道の先生になりたいと思っていました。
地震の直後から、関西方面にいる親戚や友人、知人と連絡が取れなくなりました。当時、スマホはもちろんありませんでしたし、通話用の携帯電話こそ存在しましたが、まだまだ全然、普及していませんでした。地震で固定電話の回線がやられてしまうと、大事な人にメッセージを残したり、自分の居場所を伝えたりする方法はほとんどない。
そんな状況で思ったのです。携帯電話のようなデバイスやインフラがしっかりあったら、あの人たちは、最後の最後、自分の大事な人の声を聞けたんじゃないかと。せめて最後の最後に、声を聞きたかったんじゃないかと。
そんな理由で、移動体通信の業界に興味を持ちました。
鎌利さんは、随分と真面目な青年だったのですね。
鎌利:そうですか。まあ、少なくともヤンキーとか不良だったことは一度もないですね(笑)。
前田鎌利さん。少年時代から、「悪いことなんてとてもできなかった」という理由を明かす(写真:菊池一郎)
鎌利:僕は2人兄弟なんですが、僕が1歳、弟が生まれて数カ月というときに父が亡くなり、父の両親に引き取られて育ちました。
そうやって僕の「両親」となった祖父母は大正生まれで、大変な苦労人でした。昔のことですから、誰もが十分に教育を受けられたわけでなく、両親は、読み書きがそれほどできなかった。そうなるとまあ、人にだまされるんです。契約書に書いてあることなんて何が何やらよく分からなくて、とりあえず名前を書く、みたいなことがあって、それまでの人生で大変、苦労していた。
だからそういう苦労をさせたくない、という思いで、僕を引き取った後、5歳のときから、書を習わせたんだそうです。読み書きができれば、自分たちのような苦労をしないで済むと思って。
そんな事情を両親から聞いたのが、ちょうど小学6年生のときで、今でもよく覚えています。うちの息子が、昨年、6年生だったんですけれど、彼の姿を見ながら、「ああ、このくらいのときに、あの話を聞いたなあ」などと、感慨にふけったりするわけです。
そんな両親のことを思うと、悪いことなんてもう、とてもとても(笑)。到底できませんでした。普通ならば、やんちゃな若い時期でも。
ともあれ、小学校6年生で、父母の思いを聞いたあのときから、僕の書に対する向き合い方が、変化しました。それまでは、ただ一生懸命、字を書いて、褒められたり、賞をもらったりすればうれしかったのが、「何のために僕は書を書くのだろう」「どうして僕は書き続けるのだろう」などと考えるようになりました。もちろん、嫌いじゃないから書き続けているんですが、書き続けるにしても、何かが変わった。
「つながるdocomo」より「つながらないJ-フォン」
キャリアの話に戻ると、最初に学校の先生を目指したのは、なぜでしょうか。
鎌利:田舎で「両親を養いたい」と言うと、「それなら学校の先生か公務員だな」と。みんながみんな、それしか言わない(笑)。
自分としても、学校の先生になるのは、嫌ではなかったから、それならばなろうか、と。何の先生がいいかと考えると、好きだから書道の先生。大学は書道科に進みました(東京学芸大学教育学部書道教員養成課程を卒業)。
井上:それが、阪神大震災を機に、通信業界に目を向ける。
鎌利:一度は、学校の先生として就職しようとしたんです。大学を出てから、地元に戻ってバイトをしながら、求人を探して。けれど、書道の先生の空きって、なかなか出なくて。ある意味、非常に狭き門なんです。一方で、通信業界への興味はどこかで引っかかっていて、1年ほどもんもんとした後、一念発起、名古屋に出て光通信に就職しました。
光通信の門をたたいたのは、携帯電話を「販売」する会社だったからです。震災で僕が感じたのは、「大事な人とつながれないこの状況をどうにかしたい」。その前提で、1990年代後半当時の通信業界の状況を概観すると、「つなげる道具(携帯電話)をもっと普及させるべきだ」と考えたのです。
やがて、携帯電話は1人1台持つのが当たり前になりました。すると今度は「道具はあってもつながらない」という問題が浮上してきました。
そこで、2000年に「つながらない通信会社」として有名だったJ-フォンに転職しました。あのころ、赤いロゴの会社(NTTドコモ)は、どこに行ってもつながるのに、青いロゴのJ-フォンは一向につながらなかった。そんな「青いロゴの会社に行くことが、僕の人生において重要で、赤いロゴの会社じゃ絶対ダメなんです!」と、面接でも力説しました。僕なりに選んで入ったんです。
やっぱり真面目なんですね。
鎌利:そんなJ-フォンが、英ボーダフォンに買われて、さらに孫(正義)さんが買収。ソフトバンクモバイルとして「電波改善宣言」をぶち上げ、基地局倍増計画を推進していきました。
井上:そこで鎌利さんは、ある意味、頭角を現したわけですよね。11年には、孫さんの後継者を育てる「ソフトバンクアカデミア」の1期生に選ばれ、プレゼンで1位をとり、ソフトバンクの仕事でも、あの孫正義から「一発OK」と言われるプレゼンを連発した。そのプレゼンの極意は、前回、伺いました。こうして、ソフトバンクで順調にキャリアを重ねていた鎌利さんですが、13年、突然、退職された。
鎌利:2013年の9月7日(日本時間8日)。オリンピック招致の日本代表団のプレゼンテーションをずーっとテレビで見ていて、明け方に招致が決まった瞬間、「ああ、会社、辞めようかな」とつぶやいた。すると隣に座っていた、まだ小学校に上がる前の息子がひどく驚いた顔をしていて。「この人、大丈夫かっ!?」みたいな(笑)。
アカデミアが始まった11年には、東日本大震災もありました。「つながらないソフトバンク」が、やっとつながるようになったという直後に、津波で基地局が流されて、またつながらなくなった。悔しい思いを抱えながら、避難所を回るうち、「自分は次世代に何を残せるのだろう」「何を残すべきなのだろう」という思いが募りました。あの「3・11」の4日後に、下の娘が生まれたこともあって、「次世代」のことが気になるようになっていきました。そんな思いに五輪招致決定が最後の一押しとなって、退職、独立を決意しました。
時価総額200兆円を目指す大企業ソフトバンクの一翼を担い、その未来を描くのも、やりがいはあるし、楽しいし、光栄なことだけど、7年先に何が待っているかというと、東京でオリンピックが開かれて、世界中の人が日本に集まる。そのときに隣に座っている息子や、その下の娘に何を残せるかと考えると、自分にとっては「書」を基軸にした何かではないかと思ったのです。
何しろ、孫さんはあと100年くらいは生きそうだから(笑)、ソフトバンクの未来を描くのは、別に僕でなくてもいい。けれど、たった一度のオリンピックの年に、海外から日本に来た人と、それを迎える日本の若者に「日本って、いい国だな」「日本の文化って、いいな」と思ってもらえる何かが、自分にはある。それならやろうと思って、9月8日、上役に「辞める」と言いました。
井上:さぞかし、驚いたでしょう。
鎌利:まず、「転職か?」と聞かれて、「独立です」と答えたら、「それならよかろう」と。
未来に残せるのは「好きなこと」
その後は、一般社団法人継未(つぐみ)を通じて、書道の教室を展開したり、株式会社固(かたまり)を設立して、プレゼンテーションの研修や講習を行ったり、多彩な活動を展開されています。
井上:独立の決断は、孫さんとの出会いと関係していますか。
鎌利:してます、してます。孫さんと出会ってなければ、きっと一人の会社員として生涯を終えたんでしょうね。ソフトバンクアカデミアの存在も大きかったです。
孫さんをはじめ、社内外の強烈な方々との出会いを踏まえて、「自分は子供たちに何を残すのか」と考えたとき、気づくことがあったんです。それは、孫さんもアカデミアの方々も、要するに「自分の好きなこと」をやっている。本当にもう、あきれるほどにやりたいことばかりを(苦笑)。
だから、自分も、自分のやりたいことをちゃんとやろう。 それが結論でした。
孫さんのプレゼン資料もたくさん作りましたが、作れば作るほど、「これは、孫さんのやりたいことなんだ」と、分かるわけです。それこそ、自分が孫正義になったつもりで一生懸命に作るから、「前田鎌利のやりたいことは別にある」と、気づける。
書を書くことそのものは結構、好きだったのですか。
鎌利:そうですね。趣味なんて多分、これくらいしかなくて。
純粋に楽しい時間?
鎌利:ああ、それはもう、その通りです。飯を食わなくてもずーっと筆を持って楽しく書いていられて、そのまま朝になっていた、みたいな。それで親に怒られる、という子供時代(笑)。
井上:Facebookなどで、鎌利さんの書道教室の写真を見ますが、本当に楽しそうですよね。鎌利さんが楽しんでいるから、みんなが楽しくなる。そんな空気が伝わってきます。
鎌利:井上さんが、本で紹介している孫さんの言葉で、「賢いばかりではダメなんです。愚直なまでに掘り下げていかないと」というフレーズがありますよね。あれは印象深くて、書家は、パフォーマンスのような分かりやすく目立つ活動の前に、ベースの部分がしっかりしていないとダメなんです。そのベースづくりは、ひたすら愚直に書き続けるしかない。
毎日1時間でも2時間でも、30分でも筆は持つ、筆がなければペンを持つ。ペンでも鉛筆でもいいから、時間があれば、とにかく書く。日々、書いて書いて、書いていく中で、分かることがいろいろとある。
孫さんが、事業家として「脳みそがちぎれるほどに考えろ」というのは、この感覚に近いと思うんです。何か1つ、アイデアを考えて終わりじゃなくて、もっとあるだろ、もっといいアイデアがあるはずだと、絶えず、深く、考え続ける。それが土台なんです。
「モナ・リザ」が名画である理由
話が飛ぶかもしれませんが、「モナ・リザ」という名画が、500年以上も名画であり続ける理由は、(レオナルド・)ダ・ヴィンチが生涯、手放さずに加筆を続けたからではないかと思うんです。昨年、井上さんの本の表紙の揮毫(きごう)をさせていただきましたが、あの書も、本当は数日で書いて渡してしまうのでなく、何年も書き直して書き直して、これならばと納得がいくまでは、手渡してはいけなかったのかもしれない。
それでは本の表紙にならないという現実的な問題は、さておき。
鎌利:文字を書くという行為は、あと10年もしたら、実用的な意味を失ってしまうでしょう。キーボードすら要らない。人体にチップが埋め込まれて、考えた端から、テキスト化されていく世界に確実になる。あと30年か、40年もしたら、「手を使って字を書ける」のは、ごく一部の人だけで、ある種の伝統芸能になるのかもしれない。
けれど、書家の僕は決して、未来を悲観していなくて、書くことの「面倒くささ」が、そのときこそ、大きな価値を持つのだと思います。手書きのメッセージを受け取ることで、「この人は、貴重な自分の時間を割いて、自分のことを考え、手を動かしてくれた」ことが、深く染み入る。手書きには、そういう意味があるということが今、共通知として浸透しつつあるのを感じています。
井上さんの著書の表紙に、鎌利さんが寄せた揮毫を眺めながら語り合う。孫社長に3案を提示し、選んだ1案は「孫さんのシャープさと柔らかさを表現した」(鎌利さん)という向かって左側の作品(写真:菊池一郎)
井上:今のソフトバンクをどう見ますか。「危機にある」と多くの人が言います。30年以上、取材してきた僕にしてみれば、孫さんはいつだって崖っぷちだったわけなんだけど。
鎌利:外から見える風景の良さって、ありますよね。僕は福井県の出身ですが、福井県の行政の方に「福井の良さは何でしょうか」と尋ねられて考えました。僕が福井にいたのは高校生までで、人生の長さで考えれば、福井ではない場所で過ごした時間の方が長い。だから、正直、歴史的なことも含めて、福井の深い本質なんて分かりません。
ただ、外にいるからこそ見えることもあって、僕は「(福井は)景色がいいんじゃないですかね」と、答えたんです。そのとき、僕の頭には、スイスで車窓から見た景色があって、窓から土の色が一切、見えないのです。一面の緑。これはきっと、スイスでしか見られない車窓からの風景で、それも夏のこの季節しか見られないんだろうな、と。
外から見える「ソフトバンクの風景」
何気ないようで、特別な風景。
鎌利:福井にも多分、単線の線路を小さな電車にことこと揺られながら見る風景、一言で田園と言ってしまえば田園なのだけど、里と山との距離感だとか、何かしらほかにはないものがあるといった風景が存在して、それが「(福井の)いいところ」なんじゃないかと、すごく感じたのです。そういう「外から見た良さ」というアプローチがあると、何にしろ、魅力がより引き立つ気がします。
ソフトバンクにしても、僕は7年間、中にいましたが、外からあらためて見る良さは、ずっと中にいる人から見えるものと違うと思うんです。僕が自分のキャリアの変遷をたどりながら思い起こすソフトバンクの風景には、そういう良さが満ちているし、それをどこかで中にいる人にもお伝えできるといいなと、感謝とともに思うんです。きっと大丈夫ですよ、孫さんは。
『孫正義 事業家の精神』好評販売中
発売たちまち重版!
孫正義の魂が叫ぶ。
起業家たちよ、もっと狂え!本気で狂え!
50万部突破のベスト&ロングセラー
『志高く 孫正義正伝』を著した、作家・井上篤夫が
30年以上にわたる取材で知った、
事業家・孫正義の魂の発露たる言葉と行動を記す。
2019年度中間決算説明会で大赤字を発表した際にほえた、
「反省もするが、萎縮はしない」をはじめ、36編を収録。
日英両語で発信。両語を突き合わせて読める体裁に。
孫氏が米国メディアで答えたインタビューなどから、
孫氏らしい英語、シンプルで力強い日本人の英語の再現を目指した。
表紙揮毫(きごう)は、今回のインタビューに登場の書家・前田鎌利さん(ソフトバンクアカデミア第1期生)です。
この記事はシリーズ「ベンチャー最前線」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
Powered by リゾーム?